
鳥取県の日本海に浮かぶ隠岐諸島。この島は約180の島々で構成される群島で全国的にも有名です。その隠岐諸島からフェリーで約2時間半、本州へ向かうと、今回ご紹介する名和神社に通じる道が見えてきます。本殿から鳥居まで一直線に並び、鳥居の向こう側には日本海を望むことができる、とても壮観な景色が広がっています。
南北朝時代の武将であった名和長年公をお祀りしており、長年公とゆかりの深い場所やものが数多く残されています。また、名和長年公と後醍醐天皇に関係があったことから皇室との縁も深く、戦前は皇室から、神事の際に神様へお供えする供物である「幣帛(へいはく)」が奉納されていたそうです。
「西の富士山」とも呼ばれる大山(だいせん)を背後に、海も山も携える貴重なロケーションに位置する名和神社の魅力を、権禰宜様にお伺いしました。
名和神社とは

始まりは、名和長年公をお祀りする小さな祠でした。その祠を見かけた鳥取藩藩主であった池田光仲公が長年公をきちんとした形でお祀りするため、名和神社の前身となる氏殿神社創建の運びとなりました。
神社の創建は明治時代で、国が管轄する旧別格官幣社として創建された格式高い神社です。国管轄の神社であったため、氏子区域はなく崇敬者の方々によって支えられ、守られてきた神社です。境内には弓道の名人であった名和氏にちなんだ弓道場が建設され、かつて鳥取城で「時の鐘」として使用されていた大きな太鼓が納められている太鼓楼も残されています。
明治の頃より崇敬者と地域の人々によって守られ続けてきたこの神社は、10年後の名和長年公没後700年祭へ向けて準備を計画している段階です。名和神社は、地域にとって、そして現在も名和家とゆかりのある人々にとって欠かせない神社です。
【名和神社 特別インタビュー】

鎌倉幕府によって隠岐諸島へ流されていた後醍醐天皇が、島を抜け出した際辿り着いたのが、この大山町です。名和長年公に助けられ、その後建武の新政が起こるまで、名和家とはとても深いつながりがありました。そのつながりがあったからこそ、この神社は創建され武将の名である「名和」の名を冠することができたのだと思います。
5月に行われる例大祭では、地域の人々による演舞などが奉納され、神社と地域との交流の貴重な機会となっています。神社周辺には、小学校や中学校もあり、子どもたちの賑やかな声がすぐそばに聞こえる環境です。美しい桜並木や、海を望む清々しいロケーションなど、名和神社ならではの見どころをたっぷりとお届けします。
現在にも残る、武将・名和長年公と皇室との深いご縁。

編集部本日は鳥取県大山町(だいせんちょう)に鎮座されている名和神社様へのインタビューです。まずはこちらの神社のご由緒からお聞きできますか。



御祭神は南北朝時代の武将である名和長年公と、その一族42柱の神様です。元弘3年(1333)、鎌倉幕府によって前年に隠岐諸島に流されていた後醍醐天皇がひそかに島を出られ、名和長年公に救いを求められました。それを受け長年公は後醍醐天皇を大山山系の連峰である船上山へお連れし、天皇の一族郎党を幕府軍からお守りしました。現在でも、名和神社の近くには名和屋敷跡が残っています。その後、船上山に立てこもり幕府軍と奮戦しました。その名和長年公をお祀りしており、創建は明治の頃です。



神社としては比較的新しい歴史となるんですね。



明治維新における「王政復古」は、後醍醐天皇が実現を目指した「建武の新政(建武中興)」を理想の一つとして掲げて行われました。建武の新政は、摂政や関白を置かず、天皇自らが政治を執る体制を目指したもので、明治新政府もまた、天皇を中心とする中央集権国家の樹立を目指しました。そのため、新政府は後醍醐天皇を正統な君主として位置づけ、その政治理念や功績を強く意識した国家づくりを進めました。こうした歴史的背景のもと、建武中興に尽力した武将たちの功績も改めて顕彰されるようになります。名和長年公をはじめ、楠木正成公、新田義貞公など、後醍醐天皇を支えた南朝方の皇族・武将を御祭神とする神社が明治時代に全国各地で創建され、現在では全国に15社が鎮座しています。当社が神社として創建されたのは明治時代ですが、それまでに地元の方がお祀りしていたものが江戸時代にもありました。鳥取藩初代藩主・池田光仲(いけだみつなか)が領地を見回っていた際に、何かをお祀りした祠を見つけました。当時はキリシタンへの弾圧などもあったため、光仲公もキリスト教関連のものを疑い「これは誰の祠か」と人々に訊ねたそうです。しかし、訊ねた直後は答えなかったため、キリシタンではないかと疑われましたが、問いただしたところ名和長年公をお祀りする祠であると答えたそうです。なぜ公にせず隠れてお祀りしていたかというと、長年公は京都で足利尊氏に敗北し京都から追放されました。そういった背景があったため、公の場ではなく地元の人々だけでひっそりとお祀りしていたという内容を話したそうです。それを聞いた南朝の忠臣である名和長年公を深く崇敬していた光仲公が、「名和氏のためにちゃんとしたお社を建てよう」と考え、名和神社の前身となる「氏殿(うじどの)権現神社」という神社を建てました。現在も当社の近くに残されている神社で、小さなお社ですがそれが当社の前身となります。



神社の創建の歴史は明治からですが、それより以前に名和氏との深い関係があり前身となる神社も存在していたんですね。
国管轄の官幣社として創建。偉人が揮毫した扁額・社号標も。



では、こちらの神社の見どころや特徴についてお聞かせください。



創建当初は、国の管轄となる「旧別格官幣社(きゅうべっかくかんぺいしゃ)」という社格の神社でした。その関係から、戦前までお祭りの際に皇室から幣帛(へいはく)というお届けものがありました。現在でも神社庁から幣帛が奉納されお祀りされています。それだけ古くから格式のある神社として知られてきました。



格式高い神社として存在してきたんですね。



また、神社入り口となる鳥居から神門、拝殿、本殿までが一直線に真っ直ぐ並んでおり、その光景はとても壮観です。参拝後に帰られるときには、鳥居の向こう側に海が見えるように設計されており、その延長線上に後醍醐天皇をお迎えした隠岐諸島が見えるようになっています。ただ、実際には隠岐諸島まではフェリーで2時間半かかる場所にあり、秋の空気がよく澄んだ日には見えることもあるそうですが、私自身もまだ当社の境内から見たことはないんです。







フェリーで2時間半ですか!それはかなりの遠さですね。なかなか見ることが難しいのも納得です。



海に近い場所に位置していますので、地平線を見ることができる景観はここならではのものかと思います。また、官幣社として創建されましたので当時の有名な方が携わっていただいている部分もあります。たとえば、鳥居の上部にある扁額は公卿であった三条実美(さんじょうさねとみ)の揮毫です。また、鳥居の横に立つ、神社の社号標は東郷平八郎の揮毫であるなど、錚々たる面々の方々が関わっています。





どちらもとても有名な人物ですね。社格の高さを伺うことができます。



神社の社紋も特徴的なものです。当社の社紋は帆掛け船と言って、船の形をした紋です。ホームページの上部でも見ることができますが、この社紋は後醍醐天皇隠岐諸島からお迎えした際に、共に幕府軍と奮戦した功績を讃えて名和家へいただいたものです。



こちらにも後醍醐天皇が関わられているんですね。



当社をはじめ、先ほどお話した15社は皇室との関係がとても深い神社ですので、当社に限らずこういったお話はあるかもしれません。



境内のご様子についてもお伺いします。ホームページでは、境内に弓道場があると拝見しました。こちらはどういった所以からでしょうか。





これは名和長年公が弓道の名人だったことに由来しています。船上山での戦の際、崖の下から登って来る敵を弓矢で攻撃し、1本の矢で2人を串刺しにしたという逸話も残っているほどです。また、的石(まとやいし)という大きな岩があるのですが、こちらは名和家がいた屋敷跡に残されているもので、そこで長年公が弓の練習をしていたと言われています。今でも雨が降った後などに、その岩の真ん中に矢が当たった丸い跡が見えるんです。





弓道場は今から40年前に、長年公没後650年となる年に建てられたものです。没後650年の際には大きなお祭りも開催し、その事業の一環として建設されました。現在でも4月29日のみどりの日に鳥取県の米子を中心とした弓道会の人々が集まり、弓道大会を開催しています。





現在もちゃんと利用されているんですね!大会には何名ほどの方が集まるのでしょうか。



今年の大会には約50名の方が集まりました。また、弓道場だけでなくかつては結婚式場もあり、名和神社で結婚式を挙げる方も少なくありませんでした。後醍醐天皇に関連したものだと、「お腰かけの岩」というものがあります。これは後醍醐天皇が隠岐諸島から到着されて最初に腰掛けられた岩だと言われています。その近くには後醍醐天皇が宿泊された場所があり、その家の方は後醍醐天皇から苗字を与えられたそうです。



当時は苗字がなかったということですね。



はい。ですが、宿泊された縁で「塒(ねぐら)」という苗字を与えられたそうです。



「塒」という字、恥ずかしながら見たことがない字ですが、現在もこの苗字は残されているのでしょうか。



現在もいらっしゃいます。「寝る蔵」ということで「ねぐら」となったのだと思いますが、全国的にも珍しい苗字だと思います。ほかにも、後醍醐天皇がご自身の身代わりを立てなければならないというときに、実際に身代わりになった方には「王身代(おうしんだい)」という苗字が与えられたそうです。「王の身代わり」というそのままの名前ですが、こちらもかなり珍しい苗字です。



本当に名和氏との関係は一言では言い表せないほど深いんですね。
西の富士山「大山」を望む立地。地域との交流も絶やさない神社。





ほかには、太鼓楼というものがあるそうですが、こちらはどういったものでしょうか。



太鼓楼の中には大きな太鼓が入っています。その太鼓は江戸時代に池田藩のお城であった鳥取城で「時の鐘」として使われていました。大きな楠を丸ごと使用したもので、同じ木から3つの太鼓を作り、3兄弟と呼ばれています。当社に残っているのは、そのうち一番大きなもので、幕末後に当社に奉納されました。残り2つの太鼓も島根の美保神社と鳥取の賀茂神社に納められています。現在は楼から出すことはないのですが、とても迫力のある太鼓です。





相当な大きさとお見受けします。とても貴重な太鼓が残されているんですね。では、神社での行事についてお聞きできますか。



一番大きな行事は、5月7日に行われる例大祭です。このお祭りでは名和小唄という地元の歌に合わせた踊りを奉納したり、今年はその太鼓保存会の皆さんによる演舞なども奉納していただきました。また、年末年始の際には、お餅つきを行い地元の青年会の方がお汁粉を振舞ってくれています。地域の方とはそういった交流があります。







神社の周辺はどういった環境でしょうか。



西の富士山と呼ばれている大山という立派な山があり、当社はその大山の麓にあります。そのため、海側にも近く海も山も楽しめるというのが特徴です。とても自然豊かなロケーションで気持ちよく過ごせる場所です。また、近隣には小中学校や幼稚園もあり、特に幼稚園の子どもたちは園からのお散歩ルートでよく神社へ来てくれます。人口は少ない町ですが、子どもたちの元気な声が聞こえる場所です。



神社と子どもたちの関わりが残っているのはいいことですね。



また、当社は桜の名所でもあります。神社の参道が桜並木になっており、桜のシーズンの頃には多くの方がお見えになります。





その際には、地元の方がテントを張ってくださり、桜餅を提供してくださっています。この桜並木は地元の新聞やNHKにも取り上げられたことがあり、かつては神社から海に向かっていく道にも桜がたくさんあり、本当に美しい光景だったそうです。海沿いには山陰本線が通っており、当社最寄りの名和駅という駅もあります。その名和駅で降りて神社に向かっていくと桜の木が両側にあり、その道を歩いて鳥居に着くというイメージです。この名和駅も、大正天皇が皇太子だった頃、行啓される際に新しく作られた駅なんです。駅から神社までは数分で、駅のすぐ目の前には名和公園という公園があり、そちらは元々皇太子がお休みになられる場所でした。



本当に皇室との関係が深い神社なんですね。最寄駅からも徒歩数分ということで、アクセスの利便性も良い場所なんですね。
「焼き米」発掘の珍しいエピソードも。この先も崇敬者に愛される存在へ。



では、こちらの神社にまつわる特別なエピソードはありますか。



現在、名和神社が建っている所は名和長年公の米蔵があった場所です。後醍醐天皇を船上山にお連れしてお助けした際に、残された人々は幕府軍に捉えられ処刑されてしまうということで、米蔵をはじめとするすべてのものを焼き払い船上山に登ったそうです。米蔵跡には焼き払った跡が残されており、現在はもう出てこないのですが、少し前まで神社境内の中を掘り起こすと焼き米が出てきたという話があります。



それはすごいですね!かつてそこに米蔵があったという何よりの証拠ですし、時代がしっかりと流れていることを実感します。



名和家についても、船上山での戦の後、後醍醐天皇と共に京都に行くのですが建武の新政があり後醍醐天皇は足利尊氏に攻め滅ぼされてしまいます。その後、名和家は鳥取に戻って来るのではなく、九州へ向かいます。建武の新政の後、肥後国(熊本県)八代庄の地頭職を拝領し、江戸時代まで熊本・福岡で過ごしたそうです。その後、明治になり現在の場所に神社を建てることになり、名和家の末裔を探していたところ、ちょうど福岡の柳川という場所で末裔が見つかり、神職として鳥取に迎えられたそうです。室町時代~江戸時代まで空白の期間を経て、また鳥取に戻って来たというのがとても面白い部分だと思います。現在でも熊本の方には名和城や帆掛け船のお饅頭屋さんなど、名和家にゆかりのあるものを見ることができます。



熊本にもゆかりの地があるんですね。



10年ほど前までは名和一族の会もあり、その会には九州の方も多かったんです。九州地方には、「名和」という苗字の方も多くいらっしゃったようです。また、名和氏は京都で亡くなっていますので、京都市上京区の名和公園には長年公の記念碑が建てられています。これは昭和の時代に崇敬者の方が立ててくださったもので、とてもご尽力いただきました。当社は官幣社として創建された神社ですので、氏子区域を持つ氏子神社ではなく、崇敬者の方々にお守りいただいている崇敬神社です。もちろん地域の方にもさまざまなご寄付をいただいていますが、大きくは崇敬者の皆さまのお力添えで成り立っている神社です。
今後の展望
2036年には名和長年公没後700年を迎え、700年祭を執り行う予定です。その700年祭が現在控えている最大の事業で、これから具体的なプランを計画していきます。まずは、境内の建物の老朽化が進んでいるため、そちらを修繕し境内を整備していきたいと思っています。崇敬者の方々からもご寄付を募っているため、これまで以上に親しまれる神社にしていきたいと思っています。
また、2026年の秋には鳥取市にある鳥取県立博物館で名和一族の展覧会が行われることになっています。名和長年公の時代から、建武の新政後に九州へ渡り、また鳥取へ戻ってくる約700年の歴史を見ることができる展覧会です。この展覧会は私たちも非常に注目しており、県内外からも多くの方にお越しいただければ幸いです。
インタビューまとめ
歴史の教科書では、ほんの少ししか触れることがなくなってしまった南北朝時代の歴史。歴史に詳しい人でなければ、その時代に活躍した武将やどんなことがあった時代なのか語ることは難しいでしょう。
ですが、どの時代にも有名な武将や偉人は存在し、その一人ひとりが懸命にその時代を生きていました。彼らの生涯を忘れることなく大切にお祀りし、時代が変わっても語り継いでいく。実在した人物をお祀りする神社にはそういった役割があると思います。
この名和神社は、その使命をいつの時代も全うし、この先も名和氏と神社の縁を伝え続けていくでしょう。全国的に名の知れた大規模な神社ではないかもしれません。ですが、ここでは確かに名和長年公、そして名和家や後醍醐天皇の足跡を辿ることができ、遠い過去に思いを馳せることもできます。
美しい日本海を眺めながら、知り得ることのない南北朝時代の光景や当時の人々の思いを想像してみるのも、面白いのではないでしょうか。
名和神社
住所:〒689-3212 鳥取県西伯郡大山町名和556
アクセス:電車でお越しの場合/JR山陰本線「名和駅」から南へ徒歩約5分
お車でお越しの場合/山陰道名和ICから県道240号経2km5分
URL:https://www.nawajinja.or.jp/








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