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渋沢史料館インタビュー前編 日本実業界の父、その”立体像”に迫る場所 

渋沢栄一と言えば、今や日本の一万円札の肖像として誰もが知る人物です。日本の実業界の父とも言われ、生前には約500社にものぼる企業の立ち上げや育成に携わりました。2021年にはNHK大河ドラマ『青天を衝け』の主人公としても取り上げられ、その生涯を多くの人々が知ることとなりました。

そんな彼について多くを知ることができるのが、都内北区にある渋沢史料館です。今回は、史料館の副館長様にインタビューを敢行し、史料館だけでなく渋沢氏と関わりの深い「晩香廬(ばんこうろ)」「青淵文庫(せいえんぶんこ)」という2つの建物についてもお話をお聞きしました。「渋沢栄一がいなければ、日本の実業界は変わっていた」と言われるほどの偉業を成し遂げた渋沢栄一。彼がどんな人生を歩み、どんな人々と関わっていたのか、それを紐解く貴重なインタビューとなりました。

編集部

今回は非常に充実したお話をお聞きできたため、インタビューを前編・後編に分けてお届けしたいと思います!まずはインタビュー前編からお楽しみください!
後編はコチラ⇒渋沢史料館インタビュー後編

目次

渋沢史料館とは

渋沢栄一(古希)

現在の埼玉県深谷市の農民の子として生まれた渋沢栄一は、幼い頃から論語をはじめとする多くの書物に親しみ、非常に勉強熱心な少年でした。物心が付く頃には家業である養蚕業を手伝い、藍玉づくりを手伝い、父親にくっついて商売の勉強も始めました。成長すると自分自身で商談や帳簿の管理を行い、信州、上州、武州の得意先へ出向き売買交渉も行うようになります。そうした経験が実業家としての彼の基盤となりました。

幕末には尊王攘夷思想に傾きますが、一橋慶喜(後の徳川慶喜)に仕えた後に幕臣となります。慶応3年(1867)に渡欧して、ヨーロッパ諸国の先進技術や社会・経済に関する組織制度を体験して、攘夷の考えから国外へと目を向けるようになります。経済で国の強化を図り、武士の世から新しい日本の世を創る立役者となりました。攘夷思想に傾倒していた頃も、その後実業家として活躍した時期も、いずれも非常な熱意を持って、「日の本」のために尽力した人物です。

そんな彼をより詳しく、具体的に知れる場所がこの渋沢史料館です。彼が晩年を過ごした飛鳥山の地に現存する、彼を知る貴重な場所として日々多くの方が訪れています。

【渋沢史料館 特別インタビュー】

日本史には、どの時代にも英傑・偉人と呼ばれる人物がおり、誰もが知る人物から、あまり知られてはいないけれど時代に欠かせなかった人物もいます。渋沢栄一もまさに「当時の時代に欠かせなかった人物」であり、彼がいなければ今の日本の世は大きく変わっていたかもしれません。

彼の熱量は多くの人々を動かし、彼を慕い追従する人物は多くいました。そういった人々によって創られた竜門社を前身とする公益財団法人渋沢栄一記念財団。その財団が1982年に設立した渋沢史料館が公開しているのが、晩香廬と青淵文庫です。それまでの日本の建築様式とは違う、洋風建築のデザインで造られ、そのレトロな雰囲気は現代でも多くの人々がデザインや建築の参考にしようと訪れるほどです。過去の良き物を良き物として受け継ぐ、飛鳥山にある2つの建物の魅力をお届けします。

関連事業は約1100。江戸から昭和を生き抜いた近代の偉人。

渋沢史料館本館 常設展示室
編集部

本日は、日本の実業家として名を馳せた渋沢栄一に関する史料を展示されている渋沢史料館についてのインタビューです。こちらを管理されているのは渋沢栄一記念財団ということで、事前にご連絡をいただいた内容によりますと、史料館と合わせて渋沢さんゆかりの建物である晩香廬(ばんこうろ)と青淵文庫(せいえんぶんこ)についてのインタビューを、ということでしたので、主に渋沢栄一という人物、そして晩香廬・青淵文庫についてお聞きしていきます。

副館長様

よろしくお願いいたします。本日は渋沢史料館の副館長がインタビューに対応いたします。

編集部

ありがとうございます。渋沢栄一さんは現在日本の一万円紙幣の肖像になられていますので、その存在とおおよそどういったことをされていた方かは存じ上げていますが、具体的にどういったことをされた人物であったか、改めてお聞きできますか。

副館長様

渋沢さんは江戸時代であった1840年に生まれ、昭和初期の1931年に亡くなられた日本の実業家です。生前にはさまざまな企業の設立・育成に携わり、その企業を見守ってきました。その数は約500社とも言われており、日本実業界の父と言える人物です。また、彼は社会事業として教育支援、福祉など弱者への支援にも力を入れていました。それは体が弱い人だけではなく、たとえばご両親が早くに亡くなってしまったお子様など、立場的に弱い人々への支援も行っていました。さらに、労働問題にも携わり関わった支援団体は600ほどと言われています。設立・育成企業500社、関わりのあった支援団体600、計1100ほどの事業に携わっており、現代に暮らす私たちも恐らくどこかで渋沢さんが関わったものに触れていると思います。

編集部

そんなにもたくさんの事業に携わっていらしたんですね。私も2021年に放送されていたNHK大河ドラマ『青天を衝け』を拝見し、渋沢さんの生涯をドラマの中ではありますが知ることができ、とても情熱的で自分に信念を持っていた方だとお見受けしました。

副館長様

特に江戸時代から明治を生きた人たちはほとんどの人が心の中に渋沢さんと同じように欧米への憧れを持っていたと思います。日本のいいところを大切にしながら、江戸時代までの武士道も大切にする。そうした時代を懸命に生きていたということが、あのドラマからは伝わってきました。

編集部

明治になり時代がガラっと変わり、それまで信じていたものが揺らいでしまう人、これから日本はどうなるのか不安を感じていた方も多かったと思いますが、その中でも日本のためにと尽力された渋沢さんは、本当に「偉人」と言える存在だったのでしょうね。

喜寿・傘寿を祝して寄贈。2つの重要な建築物。

編集部

では、最初に史料館についても少しお伺いします。史料館ではどういった展示を見ることができるのでしょうか。

副館長様

まず、史料館は渋沢さんが晩年を過ごされ最期を迎えた場所に建っています。東京都北区の王子という駅に近い西ケ原エリアで、昭和57年に開館しました。徳川8代将軍の吉宗が桜を植えたことで有名な飛鳥山公園という場所にあります。管理運営は公益財団法人渋沢栄一記念財団が行っています。渋沢さんはこの地にあった別荘に家族とともに移り住み、30年ほどをここで過ごされました。そして、生前自分の住んでいた飛鳥山邸の土地と建物、またそれを維持するための資金を彼を慕っている竜門社(渋沢栄一記念財団の前身)に寄贈すると遺言しました。栄一没後の昭和8年(1933)に竜門社は渋沢家より飛鳥山邸の寄贈を受けました。残念ながら1945年の空襲で火災に遭い、建物の大部分が焼けてしまいましたが、大正建築の晩香廬と青淵文庫は残りました。飛鳥山邸跡に建つ渋沢史料館では、彼に関する数々の資料を見ることができるので、私たちはこの場所を「渋沢栄一に会える場所」として広報しています。

編集部

歴史上の偉大な人物に会える場所、とても貴重な場所ですね。

副館長様

史料を紐解いていくと、渋沢さんは本当に生涯をかけて企業設立・育成や国民外交などの国際親善にも深く携わられ、日本のために色々なことを考えていた方だと分かります。

編集部

では、青淵文庫と晩香廬についてもお話を聞いていきます。まず、青淵文庫というのはどういった場所でしょうか。

副館長様

彼が晩年を過ごした場所は飛鳥山の3分の1ほどにもなる広大な場所で、坪数は8470坪、例えるなら、サッカー場が2つほど入ってしまうような広い土地です。その敷地内にさまざまな建物が点在しており、青淵文庫は渋沢さんが80歳の頃に子爵になったことを記念して贈られた建物です。大正期に建設が始まり1925年に竣工しました。そして、同じ頃にもう一つ、晩香廬という建物が建設され、この建物は彼の喜寿をお祝いして贈られた記念館のようなものです。どちらも国指定の重要文化財に指定されており、そういった記念の建物が都心の同じ場所で2棟見られるというのは非常に珍しいことです。

青淵文庫(正面)
編集部

同じ場所で見られるというのは確かに珍しいですね!どちらも渋沢さんがお年を召されてからの建物なんですね。青淵文庫は名前のとおり、書物に関する建物なのでしょうか。

副館長様

彼は冒頭にお話したとおり、たくさんの会社や社会事業に関わっており、その原点は読書にありました。読書から知識を得ることが多く、資料も大量に持っていたため、それらを保管する場所を贈ろうということで、彼を慕っていた人々が資金を集めて建設したのが青淵文庫です。ただ、1923年に関東大震災があり、文庫に収める予定だった本は建設中に焼けてしまい収めることができませんでした。

編集部

それはとても残念でしたね…。

副館長様

今私が話しているこの場所も青淵文庫の中ですが、文庫はレンガと鉄筋コンクリート造りの2階建ての建物です。建物は1925年に竣工し、ちょうどフランスでアール・デコ博覧会という万博が開催された年だったため、外観には幾何学模様やステンドグラスがあしらわれており、当時としてはとてもオシャレな外観です。1階は広々とした空間で本を読むための空間です。それに対して他の部分は、書籍を収めることを重点的に考えて作られたため、装飾は非常に抑えられたデザインです。

編集部

ちなみに、青淵文庫・晩香廬というそれぞれの名称の由来はどういったものでしょうか。

副館長様

まず、青淵というのは渋沢さんのペンネームです。渋沢栄一は現在の埼玉県深谷市の非常に裕福な農家の子として生まれ、彼の家の裏手に青い淵=池があり、そこから名付けたと言われています。晩年には周囲から青淵先生とよく呼ばれていたそうで、自分が書を記したときにも最後に署名として「青淵」と書いています。青淵文庫は彼のペンネームが名前となった建物だということになります。

晩香廬(正面)
副館長様

晩香廬は「菊花晩節(きくかばんせつ)」という漢詩に由来します。渋沢さんが幼い頃は論語を学ぶ人が多く、それが一つの素養になっていました。彼も幼い頃から漢詩を学び、自分でも漢詩を作るようになりました。その内容は、菊の花と自分の人生を重ね合わせたものでした。彼の育った家は非常に広く庭が美しい場所で、菊の花が多く咲き乱れる場所でした。そして、その花の中には咲き誇るものもあれば散るものもあり、それを自身の人生と重ね合わせていました。晩年に書いた詩であり、70歳を超えた自分は、元気に咲いている花とは違い少し枯れそうな感じもある。そして、それを若い花と対比させながら、散っていくのではなくここでもう一花咲かせようという詩を詠み、寄贈された建物に対して、自分の漢詩から晩香(ばんこう)と名付けました。「廬」というのは、いおりや庵という意味であり、草木などを用いて作る簡易的な小屋、住まいを意味します。彼は、建物が贈られた頃の自分の思いを建物に馳せて、その建物を訪れる度に背筋を伸ばすような、そういった気持ちになる場所にしたい、という意味でこの名を付けました。晩香廬は1917年の竣工で、どちらかと言うと、19世紀~20世紀にかけて興ったヨーロッパでの芸術運動を指す「アール・ヌーヴォー」という建築要素が強い建物です。造りは平屋で洋風の茶室があり、お客様が来られた際、簡易的にご案内する場所として造られました。メインルームは談話室でお茶を飲む空間となっており、お客様とお茶を楽しむために使用されていたようです。

晩香廬内観

欧米を意識した擬洋風建築。細部にもこだわる日本人ならではの建築技術。

青淵文庫閲覧室
編集部

では、それぞれの建物について特徴的と言えるのはどういった部分でしょうか。

副館長様

まずはその立地です。東京都内で大正期に建設された建物はとても限られており、それは関東大震災が原因です。その中でしっかりと残っているというのがまず貴重であり、実際にそれを活用していた人が住んでいた場所に、今もそのまま残っていることがすごいことなんです。一度も移転せず、周囲の環境が変わってもこの建物はずっと同じ場所にあります。

副館長様

そして、大正は15年という短い時代でしたが、その短い期間に建築家たちにも大きな変化がありました。明治期には擬洋風建築(ぎようふうけんちく)という建築技術があり、いわゆるヨーロッパやアメリカなどの欧米に追い付け・追い越せという欧化政策の流れがありました。建物にもそれまでとは違う、少し変わった西洋のお城のような意匠の建物が多く建てられた時代です。当時は建築家自身がヨーロッパやアメリカに簡単に行くことができなかった時代で、明治後半には、国内で知識や技術を蓄積していった大工の人々が「建築家」として独立していきました。建築家として自分のオフィスを持って、自分の信念を持って1つの建物を建てていくという、そういった時代になりました。アール・デコの時代を表現している晩香廬と、その後のアール・ヌーヴォーの時代を表現している青淵文庫、この2つの建物は今でもそのデザイン性が評価されています。

副館長様

さらにこの2つの建物は田辺淳吉さんという建築家の方が造られたのですが、この方は建築家の中でもエリート中のエリートでした。東大を卒業後現在の清水建設に入社し、在籍中に晩香廬を造り、その後独立して造ったのが青淵文庫です。彼が会社員だった頃の建物と、独立してある程度自由な意匠を反映できる建物が見られるというのは貴重です。

副館長様

特に私が感動するのは、この2つはただ建物が造られただけではなく、そこを使う人々をイメージして造られているという点です。建物を建てればそれでいいという考えもあると思いますが、そうではなく建物の中で使われる調度品などに対しても絶対に手を抜かずに納得できるものを造る、という点にこだわっている建物なんです。そこに、日本人の丁寧さが受け継がれています。完成から200年以上たっても、そういった日本の良さを感じられます。

副館長様

渋沢栄一記念財団がこの2つの建物を維持管理していることにはとても意味があり、それは渋沢さんに関する仕事の資料や会社の資料を見ることももちろん大切ですが、彼が過ごした場所を訪れ、その建物を見学し彼が過ごした空間を体感することが大切だと思っています。歴史を自ら感じることができる、これがこの建物の最大の魅力です。

編集部

インタビュー前編はここまで!後編もぜひお楽しみください。
後編はコチラ⇒渋沢史料館インタビュー後編

渋沢史料館

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この記事を書いた人

ラボ編集部のアバター ラボ編集部 編集者・取材ライター

歴史と文化遺産に情熱を注ぐ29歳の編集者、山本さくらです。子どもが1人いる母として、家族との時間を大切にしながらも、文化遺産ラボの立ち上げメンバーとして、編集やインタビューを担当しています。旅行が大好きで、訪れる先では必ずその地域の文化遺産を訪問し、歴史の奥深さを体感しています。
文化遺産ラボを通じて、歴史や文化遺産の魅力をもっと多くの方に届けたいと日々奮闘中。歴史好きの方も、まだ触れていない方も、ぜひ一緒にこの旅を楽しみましょう!

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