日本最大の面積を誇る北海道。その中でも十勝地方は、帯広市を中心に1市・16町・2村の合計19の自治体で構成される地域です。
本日ご紹介する本別神社も十勝地方に位置し、北海道ならではの雄大な自然の中で129年の歴史を刻んできました。神社としての歴史は明治30年から始まり、創祀100年の際には記念大祭も実施され、社務所が新しくなるなど、次の100年に向けて新しいスタートを切りました。
今回は、神社のこれまでの歩みと歴史、そして神社の見どころや特徴的な行事について祢宜様に詳しくお話をお聞きしました。
本別神社とは

創祀から129年の歴史の中で、空襲による戦火や地震による被害を受けてきた本別神社。ですが、そのいずれのときにも神社の姿を失うことなく、現在までその姿を留めてきました。
創祀から現在までに7柱の神様をお祀りし、多くの御利益を受けられる神社として地域にとって欠かせない存在です。地域全体での人口減少はあるものの、近年ではそれまで車での神輿渡御だったものが、人の手で担げるようになるなど、伝統を守っていこうとする姿勢が素晴らしい神社です。
神社の秋祭りでは、手作り市も開催され、子どもたちも多く参加するなど、これまでの歴史をただなぞるだけではなく新しい試みにも積極的に挑戦されています。2027年には創祀130年を迎えるため、記念すべき年に向けて、SNSなどでも積極的に発信を行っています。
【本別神社 特別インタビュー】

創祀当初は、4柱の神様をお祀りしていた本別神社。その後、廃社となる神社より3柱の神様を合祀し、現在では7柱の神様が見守る神社となっています。さらに、廃社となった神社の行事も受け継ぎ、伝統を地域の方々に伝え続けています。
空襲による戦火や、釧路沖地震の被害など、数々の苦難に直面しながらも、今日までその姿を留めてきた本別神社。お正月のライトアップや秋祭りでの手作り市など、本別神社が取り組んできた新しい試みについても、詳しくお伺いしました。
明治30年から歴史がスタート。戦火・災害も耐え抜いた、奇跡の神社。

編集部本日は、北海道十勝地方にご鎮座の本別神社様へのインタビューです。まずは神社のご由緒からお聞きできますでしょうか。



当社は、2026年で創祀129年となる神社です。まず、創祀の頃からの歴史をお話しします。明治30年に現在の社殿が建てられ、本別地方鎮護の神様として天照大御神をお祀りしました。その後、明治34年にご本殿を建立し、豊受大神(とようけのおおかみ)をお祀りしました。明治44年には、神社境内を定めて、十勝開拓の神様として大己貴命(おおなむちのかみ=大国主命)を、そして医療の神様として少彦名大神(すくなびこなのかみ)をお祀りしました。その時点で4柱の神様をお祀りし、明治45年には参拝に使用するお社として社殿を建てました。そして、大正7年に本別神社としての創立の許可が下り、この年より本別神社としての歴史がスタートしました。



明治時代からということですので、神社としては比較的新しい方かと思いますが、それゆえに、きっちりとご由緒が残っていて、神社の足跡を辿れるのがいいですね。



昭和3年には、ご社殿後方にそびえる山の山裾を整備し、昭和5年、この地域がまだ本別村だった頃、郷社(ごうしゃ)に昇格しました。北海道は一町一社制で、1つの村に1つのお社という考え方が主流で、本別神社は、本別村の中心となるお社として親しまれていました。同じ頃、境内の整備も進み、大鳥居や狛犬、石灯籠なども整備されました。昭和20年7月15日、終戦のちょうど1か月前に本別町が空襲に遭い、神社も被害を受けました。本別町の市街地区が多く焼失し、神社本殿も機銃掃射(きじゅうそうしゃ)の砲弾がかすり、柱の一部がえぐれるなどの被害があり、現在も氏子の方々から奉納いただいた絵馬などに、爆弾の破片などが貫通したような痕跡を見ることができます。



では、これまでの神社の歩みの中で、特筆すべき点はどういった点でしょうか。



神社としてスタートした年はもちろん特別ですが、やはり戦時中の歴史は忘れるわけにはいかないものだと思います。空襲での被害を受けたその1か月後に終戦となり、昭和25年には、開拓功労者の8名をお祀りし、頌徳碑(しょうとくひ=地域に貢献した人の功績を称えて、その栄誉を刻んだ石碑)も建立されました。そして、昭和29年には手水舎の下に社務所が建築され、改めて境内が整備されました。



やはり戦争との関係は、切り離せないものですね。



平成に入ってからの歴史では、平成5年1月15日に発生した釧路沖地震により、社殿や社務所、境内の鳥居などが被害を受けました。それまで、神社の鳥居は2つあったのですが、地震により、参道中ほどにあった第二鳥居が台座だけを取り残して崩れ落ちてしまいました。石の破片だけになってしまい、それ以降崩落の危険性があるということで、現在でもそこに新しく鳥居を建てようという話は出ていません。その後、創祀100年記念事業の一環として、神社参道の南側に新しく社務所が建てられました。前年の平成8年には御本殿の裏山からの出水や雨水の処理等のため建物回りの地盤改良工事が行われました。創祀100年記念大祭では奉納行事も行い、大変賑わいました。



戦火だけでなく、地震の被害にも遭われたんですね。さまざまな困難を乗り越えてきた神社なんですね。ほかに、神社内で特徴的な部分はありますか。



現在残っているものではないのですが、かつて、境内には大相撲の力士の方も来られており、木製の柱が4本ある大きな土俵もありました。私自身も小学校6年生頃までは、同級生たちとそこで相撲を取った記憶があります。ただ、その土俵も釧路沖地震で柱が倒れてしまい、屋根は残っていたので、その後倒れた4本の柱で再度修復を試みましたが、安全性を保証できるほど修復することはできず、別の場所に土台を新たに作り、鉄筋コンクリート電柱を転用して新たに屋外舞台として生まれ変わりました。その屋外舞台は、現在春祭りや秋祭りの際に使用しています。





ご自身も使われていた土俵だったのですね。地震により土俵が使えなくなってしまったのは残念ですが、残された素材を活かして別の施設を作られるとはすごいですね!



せっかくの立派な屋根付き土俵でしたので、またこうして活用することができて嬉しく思います。また、現在の社務所の近くに樹齢300年ほどと推定される大きなハルニレのご神木があり、本別神社の名木10選にも選ばれています。



神社よりも長い時間をこの地で見守ってきたご神木なのですね。本別神社では、境内に末社や摂社は置かれていますか。



神社本殿の傍らに、十勝大山神社という神社があります。その神社には玉垣があるのですが、その玉垣が劣化し修復する際に、同じ本別町内のお社が1か所廃社になるところがありました。その神社には狛犬や石の鳥居などもあったため、そちらを十勝大山神社に移設していただきました。それまで玉垣しかなかったお社に、鳥居や狛犬などを設置することができ、神社らしい見栄えとなり嬉しく思っています。
ご祭神は7柱の神様。忠魂祭、ライトアップなどオリジナル行事も。





先ほどのお話では創祀から大正7年までに4柱の神様をお祀りしていたという話でしたが、現在もその4柱の神様がご祭神なのでしょうか。



実は、その後にほかの神社の神様を合祀する機会があり、現在では7柱の神様をお祀りしています。かつて、福島県相馬市に中村という地区があり、そこに中村神社という神社がありました。本別町に御分霊をお分かちして町内に中村神社を創建し、そこでは牛馬畜産守護の神様をお祀りしていたのですが、昭和49年にその神社が廃社となりました。そこで、中村神社のご祭神であった、「天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)」「高御産巣日神(タカミムスビノカミ)」「神産巣日神(カミムスビノカミ)」の3柱の神様を合祀し、合計で7柱の神様をお祀りすることになりました。



そういった背景があったのですね。7柱の神様とは、多くの御利益を受けられそうですね。では、神社で行われている行事で、特徴的なものはありますか。



かつて中村神社で行われていた特殊神事「御神火祭(ごしんかさい)」という行事が、今も本別神社で行われています。これは護摩木に火をつけ、その火に向かってさまざまなお願いごとをするというもので、毎年11月8日の「火の神ご縁の日」に行われています。ほかには毎年7月15日に行われる「忠魂祭」があります。これは今から25年ほど前から境内にある忠魂碑前で行っているものです。忠魂碑では、本別空襲で命を落とされた方々以外にも日露戦争・満州事変・支那事変・大東亜戦争で亡くなられた方々をお祀りしており、その御霊を慰めるため実施しています。







神様だけでなく、中村神社での行事も引き継がれているのですね。空襲で犠牲になられた方への忠魂祭も、この神社ならではのものですね。



また、20年ほど前から、お正月の三が日やどんど焼きの日にライトアップを実施しています。当時、お正月の三が日に何か催し物をできればと考え、ライトアップが案として出たため実施してみたところ、地域の方にもとても好評でした。1月15日のどんど焼きの日にも、夕方から20時頃までの間にライトアップをしています。
「担ぎ神輿」の復活!秋祭りでの「手作り市」も好評。





では、神社でのお祭りなどで特徴的なことはありますか。



特徴的、というわけではないのですが、近年お祭りのお神輿渡御の際に、人の手でお神輿を担げるようになりました。今から20年ほど前まではこの地域にも担ぎ手が多く、人の手で担いでいたのですが、徐々に人口も減り、その後は車神輿にならざるを得ない状況が続いていました。ですが、今から3年前に、建築業界関係を中心に、東南アジアから外国人技能実習生が何名か本別町に移住し、その方たちが子ども神輿を転用した小さなお神輿を担いでみたところ、好評をいただきました。それまで車神輿しか見たことがなかった方が多かったので、新鮮だったのかとても良い声をいただきました。そこで、その翌年に最初から最後まで本格的に本神輿を担ごうということになり、実施したところ、本別神社のお神輿の復活というイメージが広まり、現在まで続いています。担ぎ手も毎年募集するなど、神社のお祭りに少し賑わいが戻ったように思います。





やはりお神輿は人の手で担いで、掛け声などを聞くことで、お祭りの雰囲気も盛り上がりますよね!



秋祭りでは、「手作り市」という催し物を行っています。これは今から7~8年ほど前に始まり、町の外の人にも来ていただきたいという思いで始めたところ、とても好評で、その翌年から本格的に開催し、今では手作り市がないと本別神社の祭典は寂しいという声もあるほどです。その2~3年後、令和2年に新型コロナが世界を席巻した時は、当社でも神社として何ができるかと考え、厄を払う茅の輪くぐりを実施しました。もともと、全国の神社の催事として大祓が6月・12月に行われており、6月30日に本別神社の第一鳥居の近くに茅の輪くぐりの舞台を整えて実施しました。今までそういうことをやったことがない人が多かったため、最初はやり方に戸惑っている方もいましたが、ほかの神社でも実施するところが多くなりました。最初に実施した年は、地元の新聞に取り上げていただきました。こうしたことが、ほかの神社にも茅の輪くぐりを広めるきっかけの一つになったと考えています。



では、神社建築において特徴的な部分はありますか。



昭和3年に創建したご社殿は柾葺き(まさぶき)屋根という造りで、これは、柾板(まさいた)と呼ばれる、エゾマツやトドマツなどを薄い板状に加工したものを何枚も重ね、釘で固定して作り上げる屋根のことです。トタン屋根が普及する以前の北海道や東北地方などの寒い地域で広く用いられていた、伝統的な木造屋根です。その後、時代が変わってトタン屋根や銅板屋根に替わり、現在の屋根は昭和52年に葺き替えた銅板屋根となっております。本殿の建物そのものは空襲での焼失等を免れ、現在も残っている、本別町の歴史を語る木造文化財にもなろうかという建物となりました。この葺き替え工事は、1980年(昭和52年)に開始し、同年の9月18日に完成しました。



初めてお聞きする工法です。寒い地域ならではの工夫が施されているんですね。



また、社殿の基礎や土留めなども傷みが見られたため、創祀113年を迎えた頃に修復工事を行いました。手水鉢の石にも劣化が見られたため、その翌年には新しい石に取り替えました。以前の手水鉢の石は、礫岩(れきがん)と呼ばれるもので、これは小さな砂利が集まって1つの岩になったものです。この礫岩は年月の経過で劣化しやすく、そういった石から、硬い日高石に取り換え、それを今も手水鉢に使っています。




今後の展望
ご創祀から129年を迎え、来年には130年を迎えます。ここまで、多くの方に見守っていただきながら神社としての歴史を刻んできましたが、この先も、100年、200年と愛される神社であり続けたいと思っています。
神社での行事一つひとつを大切にし、地域の方との関わりを絶やさず、地域に欠かせない神社だと思っていただけるような存在でありたいです。
インタビューまとめ
本州よりも遅れて土地の開拓が始まった北海道。そこに位置する神社の歴史も当然、本州の神社よりも新しいところが多く、それゆえに創祀当初の詳細な様子をうかがい知ることができるのが魅力です。
本別神社も、非常にはっきりとした由緒が分かっており、祢宜様にもとても詳細に語っていただきました。決して、全国的に名前を知られているような大規模な神社ではありませんが、インスタグラムでの積極的な発信を続け、手作り市の開催やライトアップの実施など、地域の神社としてできることを精いっぱい行い、地域の方々に神社という存在に親しんでほしいという思いが伝わってきました。
そういった思いが脈々と受け継がれてきたからこそ、これまでの歴史で幾度も苦難に直面しながらも、残り続けてきたのだと思います。2027年には創祀130年を迎える本別神社。ぜひ、この先100年も、この神社で地域の人々の笑顔が見られることを願っています。
本別神社
住所:〒089-3332 北海道中川郡本別町朝日町5-1
TEL:0156-22-2038
インスタグラム:https://www.instagram.com/honjinja/








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