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浄土宗 帰厚院(きこういん)東京以北最大の木造大仏を有する、ユーモアに溢れた寺院。

本堂冬の夜の写真

かつて鰊(にしん)漁で栄えた町、北海道岩内町(いわないちょう)。そこに全国でも唯一無二の取り組みを多数行っているユニークな寺院があります。観光客への丁寧な解説、地域の方との交流を目的とした“カレーの日”、コンパクトな町だからこそできる自転車での観光など、新しい試みを続々と打ち出し多くの方が訪れています。

今回は、そんなこの寺院ならではの取り組み、そして岩内という町についてホームページには載っていないお話を、ご住職の成田様にユーモアたっぷりにお話しいただきました!

目次

帰厚院とは

日本全国、どこよりも広大な面積を誇る北海道。その北海道の札幌よりも西、函館よりも北上した所に岩内町はあります。人口おおよそ1万1000人の長閑な町で帰厚院は170年の間地域の人々に愛されてきました。

この寺院の特徴は「何でもやってるお寺」。一般的にお寺という場所に抱かれるイメージは厳かで敷居が高く、そこに鎮座する仏様を見てもいったいどういう仏様なのか、詳しくお話を聞くという方は少ないと思います。ですが、それでは寺院に足を運んだ意味がありません。せっかく参ったのであれば一つひとつの仏様にどのような意味があり、どういう背景を持っているのか、寺院とどういう関係があるのか、そういった歴史的背景を知ることも寺院参拝には必要ではないでしょうか。

帰厚院では、そういった史実に明るくない一般の方にも寺院に興味を持っていただけるよう様々な取り組みを行っています。訪れてくれた観光客の方も、地域の方も大切にする寺院での取り組みを詳しくご紹介します。

【帰厚院 特別インタビュー】

彼岸法要の写真

一般のサラリーマンから住職へと転職された成田様。元々は一般の方ということからかその口調は私たちが”住職“という職種の方へ抱くイメージとは全く異なっており、とてもテンポの良いものでした。

お寺に詳しくない人間にも理路整然と分かりやすく、何よりもユーモアを交えたお話は、とてもインタビューの時間内では聞き足りずもっと聞いていたい!と思えるものでした。

岩内町がどのように栄えてきたか、そして寺院での様々な取り組みはどのような経緯で始まったのか、どこにも載っていない”ここだけの話“をたっぷりとご紹介します!

“親方”を生み出した、鰊漁の町

編集部

まず、この寺院の概要からお聞きできますか。

当寺院は北海道の岩内町(いわないちょう)にある寺院です。私自身はお寺の生まれというわけではなく、妻と結婚してこの寺院に来ました。元々はサラリーマンでしたので、脱サラ僧侶という少しレアなケースです(笑)

編集部

確かに元々サラリーマンのお坊さんという方はあまり聞きませんね!ですが、だからこそお話を聞きやすい雰囲気があり、一般の方も馴染みやすいのではないかと思います。

そう思っていただければ嬉しいんです(笑)帰厚院はおおよそ170年の歴史がある寺院ですが、北海道という土地は日本の歴史でも西日本と歴史と比べると短い地域です。この寺院もこの地方では最古ですが、西日本のお寺さんと比べるとまだまだです(笑)

編集部

「地方最古の寺院」という御話ですが、この「地方」というのはどこを指すものでしょうか。

これは岩宇(がんう)地方を指しています。この岩内町は北海道の中でも札幌より西、函館よりも北に位置しています。この地方を後志(しりべし)地方と呼ぶのですが、この岩内よりも北側に積丹(しゃこたん)半島という半島がありその辺りを古宇郡(ふるうぐん)と呼びます。その岩内と古宇を合わせて「岩宇地方」と呼んでおり、その地方で最古の寺院ということです。

編集部

なるほど!北海道に土地勘がない私にもとてもよく分かりました。

江戸時代後期から明治の初期というのは、北海道の各地方に寺院が多く造られた時期でした。本州では廃仏毀釈※(はいぶつきしゃく)の時期にあたる頃ですが、北海道は江戸時代までは蝦夷地でした。アイヌと一部和人が融合した地域で、本州とは歴史の流れが少し違います。当時、北海道に来るということは現在のように観光目的で訪れる人はほとんどいませんでした。北海道は寒いですし熊も出ます。アイヌと和人との戦争もありましたから、本州で普通に暮らしていれば北海道に来る理由がないんです。それでも北海道に渡ってくる人というのは、本州で罪を犯した方や地域全体で飢饉や飢餓が起こりそこで暮らせなくなった、家の次男・三男で家督を継げないから出ないといけないなど、いわゆる「流れ者」が多かったと思われます。そして北海道に渡ってきた時、最初にどこへ辿り着くかというとやはり函館なんです。現在のように飛行機はありませんから、青森から船で渡ると一番近い場所が函館です。なので、北海道で最初に人口が増えたのは函館なんです。
※廃仏毀釈…明治政府が神道国教化政策の一環として、仏教を排斥して寺院や仏像を破壊した運動。

編集部

なるほど。確かに函館は北海道内で一番本州に近い場所ですよね。

そういった関係で、現在の北海道庁と同じような役割を持っていた幕府の奉行所も当時は函館にありました。有名な五稜郭公園は函館奉行所の跡地です。そんなふうに江戸時代までは函館を中心とする周辺地域が蝦夷地として認められていた場所で、他の地域は犯罪などへの取り締まりもあまり厳しくないような地域でした。ですが、函館にはどんどん人が増えて飽和状態になり仕事も住む場所もなくなってきます。すると新しく来た人々は必然的に日本海側を中心に住める場所を求めて北上してきます。そして、この岩内の地に落ち着くわけです。

編集部

とても理に適ったお話ですね。岩内という町は当時はどういった場所だったのでしょうか。

岩内がなぜ栄えたのか、それは鰊漁です。ここは鰊漁で栄えた漁師町でした。それについては「鰊番屋」という名前と共に現在人気の『ゴールデンカムイ』という漫画にも登場しますが、この辺りや小樽などは鰊漁が盛んな地域でした。さて、ここで問題です。鰊をそんなにたくさん取ってどうしていたと思いますか?

編集部

どうしていた…?売っていた、のではないんですか…?

少し考えてみてください。一年の内で鰊、そんなに食べないですよね?

編集部

確かにそう言われればそうですね…!

鰊は小骨も多いですし、そんなにたくさん食べるものではないと思います。ではどうしていたかと言うと、結論から言うと鰊は船の重石に使われていたんです。

編集部

重石ですか…?

詳しくお話しましょう。江戸時代には各地域に日本全国に生活物資を運ぶ航路がありました。北海道にも人口が増えてきたため生活物資を運ぶ北前船(きたまえぶね)という船が往来していました。その船が生活物資を運び北海道で降ろすと、当然船は軽くなりますよね。船は重過ぎると沈みますが、軽すぎても横風の影響を受けやすく安定しません。そこで荷を下ろした船に鰊の搾りカスを積んで同じ重さにして帰っていったんです。鰊を潰して炊きそれを絞った後のカスが大量に樽に詰められ船に乗せられていました。

編集部

なるほど!それで重石ですか!

鰊つぶしの写真

そして、その重石は持って帰って食べるわけではなく肥料にしていたんです。

編集部

肥料…それはまた聞き慣れない話ですね。何の肥料ですか?

主に綿花です。本州で大量に栽培されていた畑のもの全般ですが、主に綿花栽培の肥料として鰊の絞りカスを畑に蒔いていたようです。つまり、この岩内周辺の地は全国の一大肥料供給基地だったわけです。そうすることで鰊番屋は繫栄し「鰊番屋の親方」「鰊御殿」と呼ばれるような大金持ちが生まれたわけです。

編集部

そういう歴史でしたか!ゴールデンカムイはアニメでも見ていたのですが、より当時の時代背景が分かりますね。

人々の想いが結集した、東京以北最大の大仏造営

もう一つ面白い話もありますよ。この岩内から小樽へ行くには、北にある積丹半島をぐるっと回らないと行けないのですが当時の函館奉行所のお役人たちが北海道全体を管轄するのは難しいものがありました。現代でも行くのは大変な距離ですから、当時では岩内までの距離でも遠かったはずです。

編集部

北海道はそれでなくても本当に広いですからね。

積丹半島に神威岬(かむいみさき)という岬があるのですが、そこには女人禁制、つまり女性は立ち入れないという伝説があるんです。日本でも有名な武将の一人、源義経にまつわる義経伝説がありますよね。「義経が北へ逃げ、モンゴルでチンギス・ハンになった」という伝説で、これは義経は平泉の高館で亡くなったと言われていますが、実は死んでおらず北海道に逃れたという話です。義経が積丹半島まで逃れてきた際に、アイヌの娘が義経を追いかけて積丹半島まで来ました。しかし義経はその娘を置いて海の向こうの大陸へ渡りモンゴルでチンギス・ハンになったというものです。しかし義経に置いていかれた娘は怒り狂い、神威岬を通過しようとした女性を全て処罰するという勢いで、最後は海に身を投げたそうなんです。それ以来積丹半島は女人禁制となったという伝説です。

編集部

それはまたとても威勢のいい女性ですね…。

ですが、北海道の人口増に対応できなくなった函館のお役人たちはそこに目をつけ、女性を伴って積丹半島を超えることを許さなかったんです。もし超えた場合はその先で事件などの被害に遭っても捜査ができないという御触れを出しました。その結果、移民として家族を伴って移ってきたけれどそこを超える勇気がない人々はみんな積丹半島の付け根にあるこの岩内という町に落ち着くわけです。鰊番屋の親方たちは鰊を獲るために豊富な労働力が必要ですから、そういった人々を雇って多くの鰊を本州に送っていたそうです。そうして建てられた立派なお屋敷などをいわゆる「鰊御殿」と呼ぶようになりました。

編集部

そういった経緯があるんですね。本当に分かりやすいお話で、一つの物語を聞いているようです。

なぜここまで細かく話をするかと言うと、これが当寺の大仏造営に繋がってくるからです。

編集部

詳しくお聞きできますか。

当寺のご本尊様は東京以北最大の木造大仏です。観光に来られる多くの方は「当時はお金があったからこんなに大きな大仏さんを建立されたんですね」と仰る方が多いのですが、そうではないんです。たとえばご自身のことで考えてみてください。明日、宝くじが当たったとして大仏を造りますか?と言われたら、誰も造らないですよね(笑)大仏の造営というのはいつの時代も裕福な人が余ったお金で造るようなものではないんです。飢饉・飢餓や疫病、戦乱などの国難が発生し、その時の権力者たちがどんな政策を打ち出しても解決しない、そういった時に人々の気持ちを結集して大仏を造ってお祈りしよう、という雰囲気になります。鰊漁で栄えた町ですが、それは江戸から明治までです。大正に入ると鰊は不漁となり、親方たちは不安になります。自分たちは鰊のおかげでお金持ちになれたけれど、その影で漁に出れば毎日のように海難事故で人が海に落ちて亡くなっている、そんな事実もありました。ですが、北海道へ渡ってきた人はいわゆる「グレーゾーン」のような方が多かったため、あまり真剣に捜査も行われず供養もしてもらなかったと思います。

編集部

誰かの富の裏には悲しい事実もあったんですね。

そういった中で自分たちだけがお金持ちになるという事実に、徐々に自責の念を抱いてきます。そこで大正5年から大仏造営が計画され、海難事故などで亡くなった方を供養しようという動きが始まりました。時が流れ、世界は第一次世界大戦の時代を迎えます。この大戦中、日本はヨーロッパへ生活物資などを輸出していたため非常に景気が良かったんです。日本産のものが海外で売れ、工場が増え富裕層も増えていきました。しかし、大正7年に終戦した途端ヨーロッパの景気が回復し、日本の工場などもどんどん潰れていきました。当然日本は不景気となり、打開策として領土拡大を目論み中国などへ攻め、そのまま太平洋戦争まで突き進んでしまうわけです。その結果、大正8年には鰊番屋の親方たちは先の時代を見越してその多くが本州へ引き上げていきました。元々は移民ですからみんな本州に故郷があるわけです。

編集部

第一次世界大戦の余波はこういった部分にも及んでいたんですね。

そうです。親方たちには帰る場所がありますが、労働者として移ってきた人々にはそれがありません。お金もありません。だから大仏様を造営すると決まった時も造ることは決まったけれど肝心のお金が集まらないという事態に陥り資金集めに奔走した結果造営に4年という年月をかけ、大正10年に大仏様は完成しました。決して大金持ちがポンっとお金を出してパッと造られたものではなく、この地に残った人々が、始めたものは完成させよう、自分たちのご飯を少し減らして残ったものをお寺に寄付しよう、そういった気持ちが集まって造営が進みました。それだけの苦労の末にできたものだということは来られる方には知っていてほしいなと思います。これが当寺のご本尊様のお話です。

編集部

本当に深い由来がある大仏様なのですね。

すごく極端な話をすれば、観光客の方は予習されている方が多いです。スマホで調べて、お寺で実物を見てその答え合わせをする、流れだけを見ればそういったことですが、だからこそどのように興味を持たせるかという点はお寺でも工夫しなければなりません。私たちにとって大仏様は「大きな物」ではなく「大きな仏」なんです。来られる方によくお伝えしているのは「見物」ではなく「見仏」をしていってください、ということです。お寺は仏様を見る場所なので、今日は大きな仏様に会えて良かったと思っていただければ、私たちはとても嬉しいです。

外国人へのアテンド、洒落を利かせた“往生券”も

編集部

ホームページトップの動画もとても力を入れていらっしゃいますね!映っているのは外国人観光客の方ばかりのようですが、そういった方々にもご説明されているんでしょうか。

そうです!皆さん大仏があるということでワクワクしていただけるのはありがたいのですが、言ってみれば普通のお寺に大仏があるだけなんです(笑)ですから、先ほど言ったような「答え合わせ」であれば3分もあれば足りるんですね。ですが、わざわざ日本のこの地に来られたのなら少しお話を聞いていってほしいなと思い、アテンドのスタッフがご説明しています。最初に言ったように、私自身はお寺の生まれではありませんから、結婚してこちらへ来た時に一つひとつの仏様がどういった存在なのか、そこから始まったんです。元々お寺で生まれた方にとっては説明も何もない、と思われるかもしれませんが一般の人は私と同じような感覚だと思うんです。来られる方にも「この仏様はこういった仏様で~」というような話を1つにつき5分ほどしてぐるっと回ってくると1時間くらいが過ぎていた、という感じです。

編集部

確かにそうですね。お寺を訪れてもそれぞれの仏様がどういった背景を持つものなのか、元々知っているという人はほとんどいないですよね。

地理的な話になりますが、北海道のニセコ町という所があります。ここは全国でも有数のパウダースノーでスキーができる町として有名なのですがそこに来られる外国人観光客の方もとても増えています。特に冬の間は滞在者が多いのですが、それだけに町も外国人の方が過ごしやすいようになっているんです。たとえば、物を買っても支払いはカードでOKですし、働いている人も外国系の方が多く日本語がなくても過ごせる町がニセコです。そうすると、日本を感じられる部分が少し少ないなと感じるのか山を越えてこの岩内に来られます。皆さんスキーを楽しみに来られてはいますが、滞在している間ずっとスキーをしていらっしゃるわけではないので、どこか違う場所をと考えて訪れるようです。最近はクラウドファンディングで英語のパンフレットも作りました!

編集部

クラウドファンディングも!本当に様々な試みをされている寺院さんですね!

そうです(笑)何をやってる寺院さんですか?と聞かれれば本当に何でもやっています(笑)お寺のホームページも作成してくれたのは移住してきた30代の女性なんです。その方がホームページも作れるというので作ってもらったんですが、今は外国人の方のアテンドもしてもらっています。

編集部

移住者の方が!素敵な縁があったんですね。現在もアテンドスタッフとして寺院に関わられているとのこと、縁が続いているのは素敵です。

他にも、洒落の分かる方にだけあげているものがあります(笑)日高町という北海道の南の方に競馬馬の馬産地があります。以前そこへ宿泊した際に宿泊施設の朝食券が馬券デザインだったんです。これは面白いなと思い施設の方にお話を聞くと、やはり競馬ファンの方が泊まりに来られるとこういった券は嬉しいと言われるそうで、うちのお寺でもやってみようかなと思い、こういった「勝ち運カード」というものを作ったんです。有効危険が30日間で、その30日だけとてもラッキーになれるというものです(笑)あと、往復券ならぬ「往生券」というものも作りました(笑)現世から極楽浄土に行けますよという切符風の券なのですが、こういったものも作っています(笑)

編集部

お寺さんのイメージとはかなりかけ離れていますね(笑)ですが、ユーモアがあってとても興味を持てます!

こういったことを始める原点は何かというと、お寺に興味を持ってもらいたいという思いなんです。私たち僧侶の本来の目的は布教です。ですが、興味のない方に話しても耳を貸してもらえませんから、興味を持ってもらうための入り口を作る必要があります。そこがなければ先には進めませんから、ふざけているように見えると思いますが、私個人としては色々な試みをやっていく必要があると感じています。

編集部

成田さんにお話をお聞きできているからこそ、これだけ面白いコンテンツとして伝わるのだと思います!(笑)

ありがとうございます!お寺のことを知りたければお寺のホームページを見てください(笑)講演会に行くとお寺も大仏様も由緒正しく、適当なのは住職だけですというところから話が始まるんです(笑)

編集部

どのお話も面白く、私もぜひ講演会でお話を聞いてみたいです(笑)

そう思っていただければ嬉しいです!

地域との交流に、“カレー”というスパイスを

カレーの日
編集部

ホームページで「カレーの日」というものを拝見しましたが、これはどういった内容ですか。

カレーの日は当寺で月に一度行っている地域の方との交流イベントのようなものです。私たちは僧侶ですから当然檀家廻りを行うのですが、それをほぼ毎日行っているんです。

編集部

毎日ですか!?

そうです。月命日にお参りに行くのでそうしていると毎日どこかの檀家さんのお宅へお経をあげに行くことになります。過疎化も進んでいる町なので昔より件数は減りましたが、それでも継続して行っているのは高齢者の安否確認のためでもあるのです。多くの檀家さんのお宅では高齢の方が一人暮らしされていて、「ご飯食べてますか?」とお聞きすると「もう年だからご飯も一度にたくさん食べられるわけじゃないの。お昼はデイサービスから届いたお弁当を半分食べて、夕方にもう半分食べるの。そして暗くなると電気代もかかるしもう寝ちゃうんです。」と仰るんですね。ですが、それはいけない、そんな生き方では頭も薄らいできますから、お寺で何かできないかと考えたんです。

編集部

とても素晴らしい取り組みですね!ご高齢の方の一人暮らしは離れて暮らすご家族も心配されているでしょうから、地域の寺院さんに見守ってもらえるのは安心ですね。

お寺はどこでもそうですが大広間がありますよね。当寺にも60畳の広間があり昔はそこが葬儀会場でしたが、今は葬儀と言えばセレモニーホールなどで行うのが一般的でお寺を利用される方はほとんどいません。私が結婚してこのお寺に来た時も、このとても広いスペースが印象的でした。もしも子どもの頃にこんなに広いスペースが家にあれば、鬼ごっこもできるしキャッチボールなんかもできます。ですが、今となってはこんなに広いスペースに誰もいないという寂しさを感じました。妻が子どもの頃には、知らないおじいさんやおばあさんが毎日来ては勝手に湯呑を出してお茶を飲んでいたり、知らないおじさんが一升瓶を片手に寝ていたなんて話も聞きました(笑)ですが、妻の父親の時代になるとそういったこともなくなり、お寺に来る人も少なくなりました。そこで、一人暮らしをされている高齢の方に「お寺で月に一度、みんなで集まって食事会でもしませんか?」と声をかけたところ、何人かの方が「それいいね!」と言ってくださったんです。ただ、食べる物をどうするかが問題でした。いいね、と言ってくださった方のうち何人が本当に来られるか分かりませんから、たとえばお弁当を40個注文してその日に10人しか来なかった場合30個余りますよね。これではフードロスにもなりますしお寺としても継続が難しい。そこで、ふと思いついたのがカレーでした。カレーであれば人数が増えれば水とルーを足して人数分作れますし、余れば家から鍋を持ってきてもらい自宅で食べてもらえます。量が調整しやすく、日本人はカレーが好きですよね(笑)万人受けする食べ物で皆さんに喜んでいただける、これはとても良いと思い「カレーの日」を始めたんです。

編集部

日本人はカレーが好き、間違いないです(笑)集まられたのはやはりご高齢の方が多かったのでしょうか。

当初はそう予想していました。ですが蓋を開けてみると子どもたちがたくさん来てくれたんです。当時は私自身の子どもも小学生、幼稚園だったのですがそれくらいの年齢の子どもたちが来るようになり、そうすると当然親御さんもいらっしゃいます。お子様を連れて来られるのはお母さんが多いですが、お母さんも旦那さんのご飯だけを別で作るのは面倒くさいですよね(笑)

編集部

分かります!面倒くさいです!(笑)

そうすると旦那さんも仕事帰りにお寺に寄って食べて帰るということが増え、結果的にとてもたくさんの人に来ていただけました。

編集部

具体的にどれくらいの方が来られていたんでしょうか。

コロナ前だと150人くらいの方が見えていました。スペースも限られていますから、入りきれなかった方は廊下に座って食べる方もいたりととても自由な感じでした。コロナ禍の際に3年ストップし、2023年から再開し順調に回数を更新しています。コロナの期間を入れて丸9年となり現在は80人ほどの方が来てくれています。60畳の広さなので実際にはそれくらいの人数がちょうどいいかなと思っています。ただ、1月はとても寒いですし8月は食品が傷みやすいのでその2か月だけは行っていません。年間10回なので10年やれば100回だなと思っていましたが、コロナでストップした期間もありますので、これから100回を目指していきたいです!

編集部

100回まであと少しですね!子どもたちが来てくれたのは嬉しいですね。賑やかにもなりますし、ご高齢の方にも喜ばれそうです。

田舎町ですから高校が1校しかなく中学になると部活で忙しくなる子もいますから、成長すると来る機会は減りますが、そういった子どもたちが高校卒業後、進学で札幌や東京へ出て長期休みで帰省した際にうちへ集まると「なんか懐かしいな」と思ってくれれば、という思いもありました。

編集部

地元の温かさ、良さを感じる瞬間がここにあるんですね。

以前、一度中外日報社という全国の宗教新聞を発行している新聞社があるのですがその創業者の真渓涙骨(またに るいこつ)さんという方にちなんだ「涙骨賞」というものが年1回開催されています。その奨励賞を受賞した際に賞金を頂き、そのお金でカレーを作ってくれている方たちのエプロンなどを作りました!

編集部

それは素敵な遣い方ですね!地域の方が作ってくれているのですね。

作ってくれているのは檀家さんや他宗派の方など様々ですが、多くは女性で皆さん「昔取った杵柄じゃないけど、私たちが作ろうか?」と自発的に言ってくださりました。本当は2時間ほどあれば作れるのですが、皆さん5時間くらい前からお寺に集まって楽しそうに話されています(笑)

編集部

女性は喋りたい生き物ですからね(笑)

本当にそれが楽しいみたいです(笑)こういった田舎町では外で子どもが歩いている姿も見かけませんから、お寺で小さな子どもたちを見るだけで自分の孫に照らし合わせて楽しんでいただいているようです。

コロナを“逆手に取った”地元再発見のアイデア

サイクル新聞
編集部

地域の方との交流の場としてはとてもいい試みですね!

ありがとうございます!コロナ中はカレーの日ができませんでしたからその代わりに何をしようか、ということで当時中学生だった息子に「何かできることないかな?」と相談すると、さすが子どもですね。できる・できないは別として大人の堅い頭では到底思いつかないようなアイデアがたくさん出てくるんです!その中の一つに、自分の町を知るきっかけを作るのはどうか、という趣旨のものがありました。「みんなせっかく家に引きこもっているんだから、この機会に自分の町をもっと知れるものがあれば」と考えたようで、雑誌を作ろうと提案されたんです。

編集部

雑誌ですか…!とても面白そうですが、難しそうですね…。

そうなんです。私は編集者でもありませんし無理だろうと言っていたんですが、ふと考えると私は毎月A4一枚の大きさで檀家さん向けに寺報を発行しているんですね。雑誌は無理でもこういった紙ペラ一枚くらいの物なら作れるんじゃないかと思い、結果的に「サイクル新聞」という新聞を作ったんです。成人式の月であれば、その年成人を迎える高校生に連絡をしてどんな大人になりたいかをインタビューしたり、かつて成人だった大人たちに「成人の頃はこんな人でした!」ということを聞きました。学校の校長先生などにもお聞きしましたよ(笑)各学校の校歌の特集や、生徒会で実施していることなども特集しコロナの3年間は毎月町内で配っていました。最初は皆さん懐疑的だったんですが(笑)そのうち、商店街でも置いてくれるようになり終盤では新聞の折り込みチラシとして町内の全家庭に配っていました!6500世帯ほどあるので、6500枚発行しました!コロナが明けたので今はやっていませんが、全部で40号ほど発行しました。表紙のデザインなどは高校の美術部の子にお願いするなど、やってみるととても楽しい企画でした。

コンパクトシティならではの、サイクル観光

自転車
編集部

とてもいきいきと話されている様子から、本当に楽しい試みだったことが伝わります!新聞のデザインも、とても素人の方々で作ったとは思えないクオリティですね!先ほど「サイクル新聞」とお聞きしましたが、寺院にてサイクルレンタルも行っているとお聞きしました。

そうなんです。当寺では自転車の無料レンタルも行っています。これを始めたきっかけは観光客の方の最後のセリフなんです。

編集部

最後のセリフ…ですか?

ここへ観光に来られた方が最後、この町を去る際に言われるセリフはだいたい「次、どこへ行ったらいいですか?」なんです(笑)ですが、小さな町ですから観光するような町ではないんです。せっかく来てくれたのだから、岩内神社や郷土資料館もありますよ、とお伝えしてみても皆さんあまり興味がないんです。ですが、たとえば前日から宿泊して10時にチェックアウトし、このお寺で僕と1時間ほど喋り、その後お昼前には他の場所に行きますとなると、お昼を跨がないので町にお金が落ちないんですね。やはり町としてはお金を落としてもらいたいという気持ちもありますから、滞在時間を延ばす必要があります。そこで、考えたのはここへ観光に来る人はどういう人か、ということです。

編集部

普通の観光客ではない、ということですか?

そうです!こういった田舎町に観光に来る方というのは旅行者のレベルで言うとセミプロ以上です(笑)ふつうは札幌や旭川に行く人がほとんどですから、好んでこの町に来ているからにはある程度時間に余裕あり、非日常感を求めて来られる方が多いと思います。また岩内はとてもコンパクトシティです。少し行けば日本海の海も、岩内山という山も見えます。そこで時間がある方なら、自転車で町中を走ってみるのはどうだろう、と考えこのお寺を拠点に自転車を5台用意しました。

編集部

本当にアイデアマンでいらっしゃいますね!岩内を盛り上げたい気持ちや、観光客の方にこの町を楽しんでほしいという思いが伝わってきます。

ところが、翌年からコロナが始まってしまったんです…。

編集部

タイミングが悪かったんですね…。

本当にそうです(笑)人が来なくなってしまい、私は朝に自転車を5台外に並べ、夕方に5台しまうという、自転車屋の店主状態でした(笑)誰も乗らない自転車を見るのはちょっと切なかったです。そこで、先ほどの息子のアイデアと合致させて「サイクル新聞」を考えたんです。ただ、実は2号目で企画が頓挫しかけたんです(笑)

編集部

そうなんですか!?あんなに素敵な新聞なのにどうしてでしょうか。

最初はモニターとなる人を毎月抽選で5人選んで町内を回ってもらい、それを記事にしようと考えていたのですが、小さな町なので人を変えても行く所が同じだったんです(笑)

編集部

なるほど(笑)地元の方ならではの盲点かもしれませんね(笑)

そこで2号目からは学校の先生などに相談して、たとえば「野球」という一つのテーマで社会人野球から、中・高の部活、少年野球までを特集して記事にするとそれを見た中学と高校の先生同士が連絡を取り合って飲み会を開いたり、体験教室を開いたという話も聞き嬉しかったですね。

編集部

それはやった甲斐がありましたね!地元の方同士の交流にも繋がっている点、本当に素敵です。

そう言っていただけるとありがたいです。この先も、カレーの日などを通して地域の方との交流を続け、観光客の方にはこの町ならではの楽しみを感じながら旅行をしてほしいと思います。

【番外編 帰厚院ちょこっとウラバナシ】

子どもたちに“お給料”を◎お寺でお買い物体験!
子どもにとって「お金」は、勝手に触ってはいけないと言われ大きなお兄さん、お姉さん、大人だけが使える何だか特別なもの。
初めて一人で買い物をした時は、ちょっと得意な気分になるものです。
そんなお買い物の疑似体験を、お寺でも。そんな遊び心で作ったのがこの「おもちゃ通貨」。最初は「ご縁」と「5円」を掛けて「五円」だけを作ったものの、一つ作るとやはり他の通貨も欲しくなるもの。続けて「いち縁」「じゅう縁」も作成し、寺院内で駄菓子屋などのイベントを開催。地域の子どもたちにお手伝いをしてもらい、“お給料”という形でお金を渡し、そのお金で駄菓子を購入してもらったりゲーム大会などで優勝したチームにお金を渡すなど、イベントで使用しています。イベント用のおもちゃのお金ですが、きっと子どもたちには「楽しい思い出と共に残るお金」になるでしょう。

僧侶ならではの“遊び心”を活かした芸術作品。
「お坊さんはお経をあげるのが仕事」そう思っている方がほとんどだと思います。もちろんそれは僧侶の勤めの中でとても重要な仕事です。しかし、実は一日のうち最も長く携わっている業務が、寺院内外の清掃などを行う「作務」と呼ばれる業務です。寺院の景観を保つためにはとても重要な作業ですが、毎日同じ作業をしていると時には「退屈だ…」と感じてしまうこともあるものです。そんな時には「楽しく掃除をしてみよう!」と考えを変え、まるで芸術作品のようなものが出来上がることも。
近所の子どもたちも大喜びで、時間はかかるものの同じことを繰り返す日常に、ちょっとした楽しみをもたらしてくれる瞬間です。ミカンの皮で作った北海道には「未完の大器」というタイトルも付けられています!(笑)

インタビューまとめ

実際にお話をさせていただき、成田様は本当にお話しがお上手で全く知らない地方の寺院様でしたが、これはぜひ一度行かなければいけない!と強く感じました。寺院での取り組み、地域の方との交流、観光客の方への思いなどすべてのお話しがとても興味を引くもので、帰厚院というこの寺院がこれまで地域の方に愛されてきた理由がよく分かりました。

「脱サラ僧侶」とご自身でも何度も仰られ、「いい加減な僧侶ですから(笑)」とお話されていましたが、そのお話の様子からは本当にこの寺院を愛されていること、そして多くの方に訪れて大仏様・寺院のことを知ってほしいという気持ちが伝わりました。

ホームページトップの動画では、成田様ご自身が観光客の方へご説明されている様子も窺え、きっとユーモアを交えてお話されているのだろうな、とワクワクします。岩内という地の歴史から現代の寺院での取り組みに至るまで、本当に詳しくお話を聞くことができ、とても楽しいインタビューでした。

北海道観光と言うと、成田様も仰られていたように札幌、函館、旭川など全国的に有名な地を思い浮かべますが、旅行の合間に時間ができた際にはぜひ岩内に、そしてこの帰厚院というとても親しみやすい寺院に足を運んでみてほしいと思います。

浄土宗 帰厚院 アクセス情報

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この記事を書いた人

ラボ編集部のアバター ラボ編集部 編集者・取材ライター

歴史と文化遺産に情熱を注ぐ29歳の編集者、山本さくらです。子どもが1人いる母として、家族との時間を大切にしながらも、文化遺産ラボの立ち上げメンバーとして、編集やインタビューを担当しています。旅行が大好きで、訪れる先では必ずその地域の文化遺産を訪問し、歴史の奥深さを体感しています。
文化遺産ラボを通じて、歴史や文化遺産の魅力をもっと多くの方に届けたいと日々奮闘中。歴史好きの方も、まだ触れていない方も、ぜひ一緒にこの旅を楽しみましょう!

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