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東圓寺(とうえんじ)  富士山と忍野八海を望む静寂の寺院

東圓寺

日本の宝と言えば、数々の遺跡やお城、文化的価値のある建造物などさまざまなものがありますが、その一つに誰もが知る富士山があります。富士山は2013年に世界文化遺産に登録され、年間を通して国内外問わず多くの方が登頂しています。その山頂からの眺めは絶景であると共に、遠方から眺めても素晴らしい山であることは間違いありません。

そんな美しい富士山の麓に位置する山梨県忍野村(おしのむら)。その忍野村の中心に創建から1200年以上の歴史を誇る東圓寺があります。富士山を望むこの寺院には、古くから伝わる天井絵の伝説や富士山麓にある忍野八海(おしのはっかい)との深い関わりなど、興味深いお話がたくさんあります。今回は寺院のご住職様に、この寺院の歴史と魅力、そしてメディアにも取り上げられた本堂天井絵の特徴についてお話をお聞きしました。

目次

東圓寺とは

人口約9700人。長閑な周辺環境に恵まれた忍野村は全国でも珍しい人口が増加している村です。日本有数の大企業であるファナック株式会社の大きな工場を有する村で、子どもたちがのびのびと安心して暮らせる村です。

富士山や富士五湖へはインバウンドを含め日々多くの観光客が訪れていますが、そこから少し離れたこの寺院周辺は非常に静かな環境が保たれており、それ故に心を落ち着かせて写経や坐禅を体験することができます。静かな環境で自分を見つめ直し、スッキリとした新たな気持ちで眺める富士山はより一層美しいものです。

世界遺産富士山の構成資産としても知られる忍野八海とも関係が深く、数々の不思議なご縁でこの地域と結ばれている寺院です。

【東圓寺 特別インタビュー】

東圓寺では、1月の交通安全祈願祭や夏休みに開催される子育地蔵尊大祭など、地域の方との交流を図る行事も数多く執り行われています。本堂の天井に見える天井絵にはとても悲しく、神秘的な伝説もありその魅力に多くの方が魅了されています。

また、富士五湖周辺では初めてご刻印プロジェクトに参加された寺院でもあり、ライダーの方をはじめ多くの方がご刻印を受けることを楽しみに訪れています。

世界遺産・富士山の麓に鎮座。国の宝を眼前に、安らげる寺院。

編集部

本日は山梨県忍野村忍草に所在されている東圓寺様へのインタビューです。こちらの地域は「おしのむら」とお読みするのでしょうか。

ご住職様

はい。「おしのむら しぼくさ」と読みます。ここは村なのですが人口が9700人ほどで、恐らく日本では一番人口の多い村ではないかと思います。

編集部

そうなんですね。この地域はどういった場所でしょうか。

ご住職様

ここは山梨県の中でも人口が増えている村なんです。その要因としては、国内有数の大企業であるファナックという企業の大きな工場があることが挙げられます。その工場に勤務するご家族などが住まわれていることもあり、人口増加の一助となっています。

編集部

それは明るいニュースですね!どこでも人口減少、少子化が叫ばれる時代ですから人口が増えているというのは素敵な話です。地図で拝見する限り長閑な場所かとお見受けします。

ご住職様

非常に長閑な場所です。昔ながらの田舎の田園風景が広がりとても心安らげる場所です。富士山を望み、水もおいしい村です。

編集部

では、まずこちらの寺院の歴史やご由緒からお聞きできますか。

ご住職様

創建は、弘仁年間810年~824年と言われています。空海上人が、関東巡錫(かんとうじゅんしゃく=人々に仏教を広めながら東の地を巡る旅)を行った際に富士山麓に霊温泉が湧いている不思議な場所を発見し、寺院を建立しました。当初は富士山を修験とする真言宗のお寺として建てられたようです。江戸時代に「富士講(ふじこう)」と呼ばれる富士山信仰の講社(神仏を信仰する人々で結成された団体)が大流行し、その流行を表す言葉として「江戸八百八講(えどはっぴゃくはちこう)」という俗名が生まれました。その富士講に属していた方々が、山を一つ越えてこちらへ来てその後、廃仏毀釈の前まで東圓寺持ちであった忍草浅間神社(しぼくさせんげんじんじゃ)を通って富士山へ登頂していました。

編集部

創建から1200年以上の非常に長い歴史がありますね。元々は真言宗のお寺として創建したんですね。それが天台宗寺院となったのはいつ頃の事でしょうか。

ご住職様

浅間神社には国指定重要文化財の三神像があります。その台座には「正和4年(1315年)、別当東圓寺」という墨書が残されており、このことから鎌倉時代の頃に天台宗となり忍草山大日院東圓寺と寺号を改めたのではないかと思われます。

編集部

鎮座している場所は創建当初から変わっていないのでしょうか。

ご住職様

実は一度遷座しています。当寺は宝永年間以前には温泉が湧き出す「湯の元」にありました。

編集部

富士山の麓に温泉の源泉があったのですね!あまりお聞きしない話なので驚きです。

ご住職様

現在温泉は湧いていませんが、かつては富士山の麓にいくつか温泉の源泉があったようです。現在も東圓寺の周辺地域にはいくつか「湯」の付く地名が残されており、かつて温泉が湧いていた証拠であると言えます。実際に、寺院周辺の地下水は現在も年間を通して18度~19度ほどあり、富士山の雪解け水や雨水が流れ込む忍野八海の水は年間13度ほどに保たれています。この水温から考えると、かつて温泉が湧いていたということも全くの嘘ではないと思っています。

編集部

なるほど。現在も源泉があれば、富士山を眺めながら温泉を楽しむこともできたかもしれませんね。

ご住職様

そして、その湯の元に一宇(いちう=一軒家・一棟の建物)を建立しました。現在の御本尊は阿弥陀三尊像ですが、当初は大日如来を御本尊としていました。徳川幕府の檀家制度以後極楽浄土の教主である阿弥陀様をご本尊とする流れになり、江戸時代に阿弥陀三尊像に変わりました。ですが、現在でも大日如来像もお祀りしています。

大飢饉から村を救った忍野八海

編集部

こちらの地域では「忍野八海」と呼ばれる池が有名だとお聞きしました。忍野八海とはどういったものでしょうか。

ご住職様

忍野八海は世界文化遺産の構成資産でもあり、富士山の麓にある湧水池(ゆうすいいけ)から8つの池を選び名づけたものです。他の地域の方は忍野八海という名前なので、8つの池があると思われる方も多いのですが、実はそうではなく数十か所の湧水池から8つの池を禊の池として選んだものが忍野八海です。1833年~1837年にかけて起きた天保の大飢饉で、忍野村は大変な被害を受け、多数の犠牲者が出ました。そんな村を救うため、当時市川大門村という村に住まわれていた大寄友右衛門(おおより ともえもん)という方が私財を投じて村の救済に尽力されました。そして、村を救う手立てを考えた結果「忍野八海」が誕生しました。忍野八海は「富士山根元八湖再興」という名目で村興し事業として正式に上野寛永寺の許可を得た事業として造られました。根元八湖は富士講の「大我講(だいがこう)」という講中(参拝・祭礼を目的とした信仰者の集まり)により関東全域に知られる大講中となりました。

編集部

その忍野八海が村の救済と関係しているということでしょうか。

ご住職様

富士講には元々八湖信仰というものがありました。富士山の周囲に8つの湖がありこれを内八湖、内八海と呼び、これらを巡り禊を行ってから富士山に登ると罪穢れが払われ、極楽浄土に往生できるという信仰です。内八海に対して、琵琶湖からスタートして中禅寺湖や浜名湖、最後は霞ヶ浦まで続く大きな湖を外八海と言います。元々はそこを巡ってから富士山に登れば罪穢れが払われるという信仰でしたが、現実的にはそれらの8つの湖を巡るのはなかなか困難です。忍野村の中には多くの泉が湧いていたため、その中から8つの池を選び禊の池にすれば多くの人が来て、村興しになり村人が救われると考えたのではないかと思います。そして、八海を人々にとって魅力的な場所にするために、仏教道教・陰陽説などの宗教を用いて8つの湖を北極星と北斗七星の形にする、八大竜王をお祀りするなどの整備が進められました。それらは人々にとってとても魅力的なものでした。そしてあっという間に多くの方が訪れるようになり、飢饉から1~2年で村が復活しました。

編集部

そういった所以なんですね。観光名所を作り人々を呼び寄せる、これは現代のツーリズムにも繋がるものですね。

ご住職様

忍野八海は昭和9年に、天然記念物に指定されました。天然記念物は自然が作ったものです。忍野八海は多くの資金とたくさんの人の手によって人工的に作られたものなので、天然記念物からは外され、信仰の池として世界遺産富士山の構成資産となりました。造池当時の古文書類が東圓寺に残っています。現在では、毎日インバウンドの方を乗せた観光バスが70~80台ほど来ています。ただ、当寺は八海から少し離れた場所に位置しているため静寂が保たれ坐禅や写経も落ち着いた気持ちで体験できます。

地域の子どもたちを大切に。珍しい神社と共に行う大祭も。

編集部

では、建築についてもその魅力などをお聞きできますか。

ご住職様

元々当寺の本堂の屋根は茅葺の屋根だったのですが、茅葺ではやがて職人も減り火災も心配だということで昭和45年に忍野村出身の実業家・大森正男氏の寄進により現在の銅板葺の綺麗な屋根になりました。また、本堂以外の庫裡(くり)や山門は八海ができた後、下我講中の浄財によって建てられたものです。本堂はそれ以前に建てられており、観音堂は3年前に完成したまだ新しい建物です。観音堂の中にお祀りされている観音様は、作者と年号が書かれている仏様の中では山梨で最古の観音様です。明治の廃仏毀釈が起こるまでは浅間神社の境内に祀られていました。廃仏毀釈により神社とお寺が分離し、神社の中にあった観音様はその時にお寺へ遷座しました。それから150年間、観音様のお部屋がない状態だったため、造像(1317年造)から700年になることを記念して観音様のお部屋(観音堂)を造ろうということになり、10年ほどかけて寄進者を募り、3年前に完成しました。観音堂の建設計画中に忍野八海が富士山世界文化遺産の構成資産となったことから、八海や池に祀られている八大竜王など「8」にちなみ、観音様のお堂を八角堂にしてはどうかということで、この地域では珍しい八角堂となりました。

編集部

では、地域の皆さんとの交流についてお聞かせください。

ご住職様

毎年1月28日に行われる初不動というお祭りでは、近隣の交通安全協会や地域の方たちと共に交通安全祈願祭を盛大に行っています。7月には子育地蔵尊大祭があります。これは元々4月に行っていたのですが、子育地蔵尊ということもあり若い方たちから「子どもたちが集まりやすい夏休みに開催してはどうか」という意見があり、数年前から夏休みの時期に行っています。おかげで子どもたちもたくさん参加してくれるようになりました。

地蔵尊大祭
編集部

この子育て地蔵尊大祭はどういったきっかけで始まったものでしょうか。

ご住職様

正徳年間の1711年にある疫病が流行り、多くの子どもたちが亡くなりました。その子どもたちの慰霊と、今後無事に子どもたちが生まれ育つようにと願いを込めてお地蔵さんを作ったという記録が残されており、その時代から300年以上続く歴史あるお祭りです。

編集部

悲しい背景があるお祭りでもあるのですね。それ故にこれからも大切にしていきたいですね。この行事ではハンドメイドショップなども開催されているとお聞きしました。

ご住職様

はい。ハンドメイドショップも開催し、現代ではなかなか教わることが少なくなった手作りでのおもちゃ作りなどを行っています。弓矢やゴム鉄砲、割り箸を使った工作などを楽しんでもらっています。他には、境内のあちこちに文字を隠してそれを探す文字遊びのようなこともしています。

編集部

それは面白そうですね!子どもたちにはとてもいい刺激になりそうです。

ご住職様

みんな楽しそうに参加しています。そういったこともできるので夏休みの開催にしてよかったと思っています。そして、浅間神社では9月19日、20日に諏訪明神大祭というものがあります。廃仏毀釈ではほとんどの神社とお寺は分かれてしまったので、その後のお祭りは神社を中心にやることが多いのですが、どういうわけか廃仏毀釈以降もこのお祭には当寺が携わり、朝の御神前の奉納から神輿渡御の全てが終わった後、役員の方々が寺院に集まり住職からご苦労様でした、今年も無事にお祭りが終わりましたという言葉を告げてお祭りが終わります。こういった形式でお寺がお祭りに関わっているのは非常に珍しく、神仏混交の歴史の残るお祭りです。11月3日には天台大師、伝教大師(でんぎょうだいし=最澄)の報恩感謝と合わせて、ご先祖様に感謝をするという意味で、お会式(おえしき)と呼ばれる行事を行っています。普段は住職と副住職だけのお寺ですが、この行事の際には近隣の方や他の寺院の僧侶の方が10人以上集まり天台宗の儀式に則った法要を厳かに行っています。これらの行事が村の方々が深く関わる行事です。

編集部

地域の方との交流も大切にされているんですね。

ご住職様

また富士山が世界遺産になったお祝いの護摩祈祷をしようということで、世界遺産に登録された翌年に「不二(ふじ)の祈り」という名称で特別祈祷行事を始めました。すると檀家さんよりも他の地域から多くの人が見えて、現在も盛大に続けています。写経や坐禅体験などの他、精進料理でのおもてなしも行っており、こちらはインバウンドの方にも楽しんでいただいています。

編集部

富士山との関わりもとても深い寺院ですね。

富士五湖周辺で初のご刻印参加寺院。

編集部

こちらの寺院ではご刻印プロジェクトにも参加されているそうですね。

ご住職様

ご刻印への参加は本当につい最近で、2025年の7月23日から始めました。当寺の副住職がバイク好きなこともあり、当寺でもご刻印をやってみたいということで加わらせていただきました。参加した順番もご縁があって、縁起の良い88番だったんです!

編集部

それは末広がりで縁起がいいですね!ご刻印をすることでまた新しい出会いもあると思いますし、参加されて良かったですね。

ご住職様

特に富士五湖ではご刻印をしている神社・寺院がなかったため、当寺でご刻印を受ける方には「富士山の周辺でご刻印を打てる所ができて良かった」と喜んでいただけます。今後、富士五湖や富士山周辺でもご刻印に参加される所が増えることを願っています。

編集部

では、周辺景観についてお聞きします。非常に長閑な場所とお見受けしますが、冬場は雪が積もる地域でしょうか。

ご住職様

昔はたくさん降りましたが、やはり最近はかなり減っています。1シーズンに数日降る程度ですが、降る時はドカンと降る印象です。また、海抜900m以上ある場所なので一旦降るとなかなか溶けずに1ヶ月ほど残っていることが多いです。気温も-15度くらいまでは下がります。ただ、富士山が一番綺麗なのは、やはり冬です。晴天の日は本当にすっきりと富士山が見えます。夏は富士山が見えるのはほとんど朝と夕方の少しの時間なんです。日中は雲に隠れて見えないことも多いのですが、冬は一日中見ることができます。特にこの忍野村は富士山の麓にあるのでとても美しい富士山の姿を見られます。綺麗な富士山を見たいと思った方は、ぜひ冬場に訪れることをオススメします。世界遺産に登録されると、登録当初は人が押し寄せますが、5年10年経つとその数も落ち着いてきます。ですが、富士山は年々訪れる方が増えており、それだけ魅力のある山だということだと思います。

編集部

本当に富士山はこの国の宝ですね。冬場の綺麗な富士山、いつか私もお目にかかりたいです。

【寺院にまつわるエピソード】

夢枕に立つ、お不動さんからのメッセージ

廃仏毀釈の流れが興った際、富士山に祀られた仏像などは壊されたり、下山させられました。そんな時、富士山一合目の鈴原大日堂という所にお祀りされていた不動明王が同夜・同時刻に3人の神主の夢枕に立ったそうです。その翌日3人の神主たちは「夕べ不思議な夢を見た。お不動さんが東圓寺に遷座したいとおっしゃっていた。」「私も見た」「私も同じ夢を見た」と話し、3人が同じ夢を見るとはこれは不動明王像を東圓寺に遷座しなければならないと思い、それがきっかけとなり不動明王像が東圓寺に遷座することとなりました。

悲運の死を遂げた絵師と、貴重な天井絵。

東圓寺の天井にはとても立派な天井絵があります。その絵の中には八卦図(古代中国から伝わる占術における8つの概念)とその周囲に4羽の鳳凰が描かれています。これらが描かれた理由は判然としていませんが、龍は水の守護であり鳳凰は火の鳥です。忍野八海には八大竜王がお祀りされ、浅間神社の社殿の柱には龍が描かれており、当寺の天井絵と無関係ではないと考えられます。実はこの天井絵を巡ってはある悲しいドラマがあります。

東圓寺の本堂は文政4年(1821年)に建立されましたが、この本堂が建てられた背景には、以前の本堂が放火により焼失したという事件があります。幸い、ご本尊は地域の方々により運び出されましたが本堂は全焼するほどの火災でした。その放火の目的は寺院に残されている古文書を焼き払うためではなかったか、とも考えられています。ですが今から20年ほど前、古文書の整理をしていた時、焼失したと思われていた古文書は焼けずに残されていました。そこには、当時東圓寺の本寺であった寛永寺と交わした、浅間神社を管理するための約束事が記されていました。

そして本堂再建から20年後、京都の石清水八幡宮の社士(しゃし=神官・武士)であった中村錬吉重明(なかむられんきちしげあき)(本名:谷村仲)という人物により、本堂の八卦図と鳳凰が描かれました。そしてこの重明の子孫が今でも富士山の麓に住んでおり、その方のお話に引き込まれ、現在の住職が重明のお墓を探すことになりました。

子孫の方のお話では、重明が天井絵を描いている間、身の回りのお世話をしてくれていた村の娘と恋仲になり、その娘との間に男の子が産まれました。実は重明は自分の身分を偽り村に滞在していました。子どもが産まれたことで彼は子どもの身分をきちんとしたいと思い、故郷である京都へ帰り両親に山梨で家族と暮らしていることを報告しました。その後一向に重明は山梨へ戻らず、重明の妻は生き、京都まで重明を訪ねて行きます。ところが、何と重明は京都で亡くなってしまっていたのです。

重明が身分を偽っていた理由は、彼の生まれた家が名家だったことにあります。重明の家は代々石清水八幡宮に仕える立派な家柄で、重明は嫡男として生まれましたが母親は早くに病死してしまいます。その後父親は後妻を迎えますが、この継母と重明は非常に折り合いが悪く、そういったことから重明は家を飛び出しました。その継母にも男子が生まれ、継母にとって重明は疎ましい存在となりました。ところが、その疎ましい存在である重明が家に戻ってきたことで自分の子どもが家督を継げなくなるのではないかと考えた継母は、重明が帰郷したことを祝う宴を開きその宴会の席で彼の食事に毒を盛り殺害してしまったのです。

そして月日は流れ現代のある日、現住職が本堂横にある古い墓の中に重明の供養碑を見つけました。その戒名と「山城国大谷ニテ 谷村仲コト」と書かれているのを見て、再度石清水八幡宮へ向かいました。そして、石清水八幡宮の神宮寺(神社を管理していたお寺)である「神應寺(じんのうじ)」というお寺があることを知り、そちらへ訪ねたところ、ご住職夫妻が過去帳に重明の名前があるかを調べてくれました。そして供養碑に刻まれていた戒名が過去帳にあるのを見つけたのですが、その重明の名前は「谷村仲重明(たにむらちゅうしげあき)」となっており、彼が偽名を使っていたことが分かりました。偽名を使っていた理由は分かりませんが、後日神應寺のご住職により谷村仲のお墓も見つけていただきました。

石清水八幡宮に仕える家柄の中でも格段に家柄が格上だった谷村家のお墓は、谷村家のために建立された「常昌院」の裏手の山にあり、その常昌院が位置する場所が大谷という地名でした。過去帳には「幼名六僮(りくどう)」という幼名も記されており、お墓の石碑にも大きな字で「六僮」と刻まれていました。

この天井絵はこれまでにNHKの番組などでも取り上げられており、とても由緒のある天井絵です。

今後の展望

忍野村の周辺には毎日非常に多くのインバウンドの方々が訪れています。当寺に来られるのはその内のほんの少しですが、そのおかげで静かな環境で坐禅を体験していただけます。そういった環境は来られた方からも評判で「落ち着いた環境で気持ちを新たにできる」というお声も頂いています。

そういった状況から、この先も観光で富士山周辺を訪れる方々を積極的にこちらへ誘導する、ということはせずありのままの現在の形を保っていきたいと思っています。自然の中で静寂の中に身を置いて、自分を見つめる環境を整えていきたいと思います。そして、この寺院を訪れる方々にとって心安らぐ空間であることを願っています。

インタビューまとめ

日本一の山である富士山は、今や世界の宝として世界中の人々から愛されています。その麓で静かに鎮座する東圓寺では、現実から少し離れて心を落ち着かせながら自分を見つめ直すことができます。

お話をお聞きしたご住職様も非常に穏やかな方で、お寺の歴史や天井絵のエピソードを楽しそうにお話いただきました。忍野八海についてはほとんど無知の状態でお話をお聞きしましたが、とても分かりやすく解説していただき、富士山観光がより楽しみになりました。

富士山への観光をきっかけに忍野村へ足を運べばきっとあなたも、ここでしか出会えない自然と出会い、ここからしか見られない富士山の雄大な姿を見ることができますよ。

東圓寺 アクセス情報

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この記事を書いた人

ラボ編集部のアバター ラボ編集部 編集者・取材ライター

歴史と文化遺産に情熱を注ぐ29歳の編集者、山本さくらです。子どもが1人いる母として、家族との時間を大切にしながらも、文化遺産ラボの立ち上げメンバーとして、編集やインタビューを担当しています。旅行が大好きで、訪れる先では必ずその地域の文化遺産を訪問し、歴史の奥深さを体感しています。
文化遺産ラボを通じて、歴史や文化遺産の魅力をもっと多くの方に届けたいと日々奮闘中。歴史好きの方も、まだ触れていない方も、ぜひ一緒にこの旅を楽しみましょう!

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