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遠野郷八幡宮 遠野の“社会”を創った、地域に不可欠の神社。

皆さんは、「社会」という言葉の語源をご存知でしょうか。「社(やしろ)」に「会う」と書くこの漢字は、実は神社と密接な関係を持っています。

今回ご紹介する遠野郷八幡宮は、まさに神社によって一つの「社会」が創られたとも言える、お祭りと神社あっての地域です。地域に暮らす人々が神社で行われるお祭りを心の拠り所とし、毎年その日が来ることを楽しみにしている、そんな特別で地域にとって無くてはならない貴重な神社です。

全国でも有数の広大な馬場を持ち、そこでは毎年珍しい所作による流鏑馬神事も行われ、見る人々を圧倒しています。今回はそんな神社の流鏑馬をはじめとする数々の見どころと魅力について、そして「社会」とは何であるかを神社のご関係者様にたっぷりとお話いただきました。

目次

遠野郷八幡宮とは

民俗学者であった柳田國男が著した『遠野物語』。この著作には全国的にも有名なカッパや座敷童子が登場する物語があり、遠野郷八幡宮が鎮座する遠野市もその舞台となっています。そんな貴重な歴史的背景を持つこの神社は、創建から800年以上の歴史があると伝えられており、その時の流れの中では遠野地域が無法地帯とも呼べるような治安の悪い場所だった時期もありました。

ですが、青森県の八戸から招いたお殿様により「遠野まつり」が開催され、この地域の人々は祭りを心の拠り所として楽しむようになり、民衆の心は一つになりまた心を落ち着かせられる穏やかな地域となりました。

遠野まつりに代表される地域住民との心の繋がりはもちろん、五柱の神様による数々の御利益、神社猫であった“オトラサマ”をお祀りする猫神社など、訪れるだけでいつでも楽しめる神社です。

【遠野郷八幡宮 特別インタビュー】

八幡山という山の麓に鎮座し、冬場の冷え込みは厳しいもののその分四季の移ろいが明瞭で、いずれの季節も素晴らしい景色を見せてくれる神社です。境内には山から下りて来た野生動物たちが姿を表し、冬ごもりの支度をしている様子など、野生下での彼らの暮らしをも垣間見ることができる、とても貴重なロケーションです。

秋の例大祭では流鏑馬の他、しし踊りやさんさ踊りを見ることができ、5月5日の子どもの日には春の例大祭で子どもたちが流鏑馬を体験できる行事も催されています。そのいずれもこの地域でしか体験できないことであり、それらの行事があってこその遠野だと、地域住民の多くが同じ思いを抱いています。

 地域一丸となって神社とお祭りを見守っている、そんな温かい地域に鎮座する遠野郷八幡宮の魅力をたっぷりとお届けします。

『遠野物語』の舞台となった地。出雲大社からの御分霊も。

編集部

本日は、岩手県遠野市松崎町に鎮座する遠野郷八幡宮様へのインタビューです。まず、遠野市という町はどういった町でしょうか

ご担当者様

遠野市は岩手県のおおよそ真ん中あたりにある盆地です。各沿岸と内陸の交通の要所でもあり、かつては宿場町として栄えた町です。一般的には柳田國男が著しカッパや座敷童子などが登場する『遠野物語』の舞台として知られています。

編集部

では、こちらの神社の歴史や由来をお聞きできますか。

ご担当者様

創建は詳らかではありませんが文治5年(1189)と伝わっており、その頃源頼朝が奥州藤原氏を追討し、その際頼朝に従軍し功績のあった阿曽沼氏という武将が遠野郷を賜り、源氏の守り神である八幡様をお祀りしたことが創建のきっかけと言われています。

編集部

長い歴史のある神社ですが、遠野郷という名前の由来は分かっているのでしょうか。

ご担当者様

元々は郷社八幡宮という名称でした。遠野郷という地域一円を治めていた八幡様という意味ですが、祖父の代に市制施行により遠野市と宮守町に分かれたため、旧遠野郷の氏神ということを強調して「遠野郷」と改称したそうです。御祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと)、大国主神(おおくにぬしのかみ)、事代主神(ことしろぬしのかみ)、少彦名神(すくなひこなのかみ)、そして五穀豊穣の神様である御年神(みとしのかみ)の五柱の神様です。御利益もさまざまなものがあり、特徴的なのは大国主命です。元々の御祭神は誉田別尊でしたが、祖父の代に島根の出雲大社まで出向き大国主命の御分霊を分けていただいたそうです。当時は飛行機もありませんから、電車のローカル線を乗り継いで行ったようですが、その御分霊の箱を抱きかかえている写真が現在も残っています。昭和26年の出来事ですが、恐らく出雲大社からの直接の御分霊をお祀りしている神社は岩県内では当社が唯一だと思います。そういったご縁もあって縁結びの神様としても崇敬されています。

全国有数の広大な馬場や、神社と崇敬者による珍しい“猫神社”も。

編集部

では、こちらの神社の魅力や特徴についてお聞かせください。

ご担当者様

まず大きな特徴の一つとして、広大な馬場があります。これは流鏑馬を行うスペースなのですが一周450m、直線距離220mというとても広い馬場です。9月に行われる遠野まつりの2日目に当社の例祭として流鏑馬が奉納されるのですが、日本でも有数の広さを誇る馬場です。その馬場をまず見ていただきたいです。他に、最近有名になったものとして猫神社があります。

編集部

猫神社ですか…?

ご担当者様

神社で飼っていた元野良猫のオトラサマという猫がいたのですが、平成25年に亡くなってしまいました。ですが、オトラサマは生前、参拝者を拝殿まで先導してくれたり、オトラサマを目当てに参拝する方も多く非常に神社に貢献してくれた猫ちゃんでした。オトラサマファンの方もとても多く、亡くなったままにしておくのは忍びないということで、オトラサマを顕彰するお社を入り口に建立しました。噂が噂を呼び現在では猫神社を目当てに参拝される方がとても増えました。

編集部

ホームページでも拝見しました!とても可愛いですね!

ご担当者様

神社にとってはまさに招き猫でした。お祭りの時には神前にお供えしていたキンキを食べてしまうなどとても元気で愛された猫ちゃんでした。オトラサマの御朱印もあり、そういった御朱印を目当てに来られる方もいます。実はこの御朱印は崇敬者の方が描いてくれた絵をもとに消しゴム判子にしたもので、神社で作ったものではないんです。

編集部

消しゴムハンコでこんなに上手く作れるんですか!?素晴らしいです!これは猫好きさんは絶対に手に入れたい御朱印ですね。猫神社の看板も猫の形で象られているのがとても良いです!

ご担当者様

実はこの看板も崇敬者の方が作ってくださったんです。今置かれている置物なども全て崇敬者の皆様からの奉納品で、ホームページの写真は少し古いので写っていないのですが、現在はこの左側に宝物殿といって奉納されたものを置けるスペースを作っています。日常的にちゅーるが奉納されていたりして、お正月が近づくとちゅーるが両側の入れ物に刺さって置かれていたこともあり、崇敬者の方が「かどまちゅーるだよ」と仰っていました(笑)

編集部

なるほど!(笑)とてもユーモアのある崇敬者さんですね!

ご担当者様

自分たちでは思いつかないようなことを進んでやってくださるのでとても嬉しいです。他に境内の見どころと言えば、当社は遠野市の中では最も大きな神社ですので拝殿を見ていただいたり、拝殿の左側には旧拝殿と言って昔の拝殿があります。建て替えた際に移設したものですが、その中にコンセイサマという男性のシンボルを象ったお神輿が祀られています。これは遠野ならではの信仰だと思いますので、そういった遠野らしい部分も感じていただければと思います。他に、干支の神社があり自分の生まれ年の神社を参拝していただけます。

編集部

さまざまな見どころがありますね!ホームページで境内の四季のページも拝見しましたが、やはり冬場は雪が多いのでしょうか。

ご担当者様

岩手県の中ではそこまでたくさん降る地域ではありません。ただ盆地ですので冷え込みがすごく、冬場なら普段はマイナス10度ほど、時にはマイナス20度を下回る時もあります。

編集部

それは寒いですね!境内には野生動物も多く見られるのでしょうか。

ご担当者様

そうなんです。ホームページにも写真を載せていますが、リスやタヌキ、キツネ、ウサギ、イタチ、アナグマ、シカやカモシカも見られます。特にリスはしょっちゅう見ます。秋になると冬ごもりの時期で至る所でぴょんぴょんしていて、木の参道を歩いているとカサカサと音がして、リスがその上を歩いていることが多いです(笑)。

編集部

とても微笑ましい光景ですね!

ご担当者様

また紅葉もとても綺麗だと評判です。寒暖の差が激しいので色づきがよく赤は赤らしく、黄色は黄色らしくハッキリしていて、人によっては京都の紅葉よりも綺麗だと言われる方もいます。10月末から11月はじめの紅葉シーズンにはライトアップも実施しており、多くの方が写真を撮りに来られたり楽しんで行かれます。

編集部

周辺景観も長閑な印象ですが、来られる方は皆さん車での参拝が多いのでしょうか。

ご担当者様

ほとんどは車ですが、最寄りの遠野駅からは自転車で10分ほどで来ることができるのでレンタサイクルで来られる方もいます。八幡山という山の麓にありますので、周辺には緑が多く、それ故に野生動物も多く見ることができます。雪が降った時などは、足跡を見ると夜の間にたくさんの動物たちが遊びに来ていたことが分かって微笑ましい気持ちになります(笑)

遠野の「社会」を創った遠野まつり。この地方“ならでは”の光景が目白押し。

編集部

では、地域の方との交流についてもお聞きします。神社の行事で、地域の方と一緒に行ったり参加いただける行事はどういったものがありますか。

ご担当者様

当社の境内は人が集まるために造った境内であり、故に先ほどお話した広大な馬場があります。この馬場には1万人ほどの人が集まってお祭りをし、遠野まつりの際には境内に40団体ほどの郷土芸能団体が集まり神楽や太神楽(だいかぐら)、しし踊りなどが奉納されます。特にしし踊りはこの遠野地域でしか見られないビジュアルです。「しし」は「鹿子」と書いて「しし」と読んだり、ライオンの「獅子」とも書き、さまざまな動物の集合体、キメラのような見た目をしています。そういった「しし」の仮面を被って踊るしし踊りや南部ばやしという手踊り、田植え踊りやさんさ踊りなどが披露されます。岩手では盛岡のさんさ踊りが有名ですが遠野にもさんさ踊りがあり、そういった郷土芸能のるつぼとなっています。

編集部

遠野らしさを一挙に感じられる場所なんですね。しし踊りのお写真もとても迫力があります!確かにこのビジュアルはあまり見かけないものですね。

ご担当者様

元々しし踊りは鹿の供養から始まったものではないかと言われていますが、この遠野のししを見るとそれだけではないように思います。仙台藩など他の地域の獅子踊りでは本物の鹿の角を使う所もあるのですが、遠野ではもう少し抽象的で角の部分は普通の牛の角を表しており、これは農耕関連の意味を持っています。目は鹿で繁殖を意味しており、髭の部分は龍の髭を表しこれは雨乞いに繋がるものです。そういったさまざまな意味が複合的に合わさって五穀豊穣や鹿の供養、そこから派生して人の供養も行います。お盆の時期になると位牌やお墓の前で踊ることもあり、さまざまな機能を併せ持った神様という感じです。

編集部

ご利益が凄いですね!本当にこの地域を象徴するような伝統行事なんですね。

ご担当者様

集まった郷土芸能の団体が八幡様のお神輿を中心に450mの馬場を巡り、遠野南部流鏑馬という流鏑馬が奉納されます。この流鏑馬もこの地域ならではのもので、岩手県は南部藩の土地だったため南部流鏑馬という名前なのですが、この流鏑馬は単に射手が的を射抜くだけでなく、射手を褒め称える役目である「介添奉行」という方もいるのが特徴です。その射手が3つの的をパンパンと打ち抜いた後に介添奉行が間髪を入れずに馬を発進させ「よぅ射たりや、よぅ射たりや」と言いながら射手の後を追います。「射たりや」という言葉は国のイタリヤではなく、「よく射った」という意味です。その所作はここでしか見られないものでとても貴重な所作です。

編集部

ここならではの光景がたくさんあるんですね!この馬場はいつ頃造られたのでしょうか。

ご担当者様

馬場の造営は1661年ですが、流鏑馬神事はその当時からずっと続いている特徴的なもので後世に伝えるべきものだと思っています。

編集部

ホームページで写真を拝見しましたが、確かにとても多くの方が集まり迫力が伝わってきます。地域の皆さんはほとんど来られるのでしょうか。

ご担当者様

遠野市の人口は2万3000人ほどですが、そのうち1万人ほどの方が来られ、地域の皆さんの心の拠り所となっています。この遠野まつりがあるから遠野に残っているという方もいますし、遠野にいる理由の半分はこのお祭りだと言ってくださる方もいます。この地域の方々の生きがいになっているものなので、地域の皆様との繋がりで最も大きいのはこのお祭りの話になると思います。

編集部

お祭りは2日間にわたって行われるのでしょうか。

ご担当者様

そうです。1日目は町中で行われ、2日目は当社境内でお壊れます。屋台も20~30店舗ほど出店し、とても賑やかな2日間です。

編集部

この遠野まつりが始まったきっかけは分かっているのでしょうか。

ご担当者様

お祭りの始まりは先ほどお話した阿曾沼氏の失脚にあります。冒頭で遠野地域は阿曾沼氏が治めていたとお話しましたが、阿曾沼氏はクーデターで失脚してしまうんです。それが1600年のことで失脚後のこの地域は暗黒時代に入ります。統治者がいないため、色々な盗みが横行し、殺人が起こるなど荒れ放題になってしまいました。それを嘆いた南部藩のお殿様が青森県の八戸のお殿様を遠野に呼びつけ、遠野を統治するよう命じました。その八戸のお殿様が遠野へ来られて統治したのが1627年のことです。お殿様が来るまでの27年間は荒れ放題だったため、そのお殿様も統治にとても苦労されたそうです。そこで、お祭りを利用して民衆を一つにまとめようと試みたんです。そのために広い境内を整備し、武士は流鏑馬を奉納し、町方の人は南部ばやしや太神楽を、町以外の地方の人々はしし踊りや田植え踊り、さんさ踊りを奉納しなさいと仰られ、人々を一気に集めて楽しませたそうです。その結果、遠野の人々の心が一つになり治安も安定して治まるようになったそうです。つまり、当社は遠野まつりを行うために造られた神社でもあります。そのお祭りが今でも続いているということは、統治に尽力したお殿様の思いが令和の世にも息づいているということです。この地域の方々は、遠野まつりを楽しみに一年を頑張り、お祭りで一箇所に集まり日頃の鬱憤を発散させ、その後また一年頑張りましょうと気持ちを新たにしています。遠野まつりはそういったお祭りなんです。

編集部

町を治めるために始まったお祭りなんですね。この先も長く長く続いてほしいですね。

ご担当者様

本当にそう思います。私自身、このお祭りがなければ遠野じゃないと思っているほど大切なお祭りです。少し話は逸れますが、「社会」という言葉の語源をご存知でしょうか。

編集部

語源ですか…改めて言われると考えたことがないですね。

ご担当者様

社会は「社(やしろ)」に「会う」と書きますよね。これは古代中国語でお祭りのことを指したそうです。それを明治の時代にソサエティという言葉が外国から入ってきた際に翻訳者が「社会」という言葉を当てはめ、それが一般的に広まったと言われています。社会とはお祭りのことなんです。私は遠野の社会はこの遠野まつりが作り上げたと言っても過言ではないと思っていますので、ソサエティに社会という言葉を当てた翻訳者の気持ちがとても分かるんです。お祭りをするとなれば必ずお金が必要で、寄付活動をしたりお弁当なども作るので経済活動も活発になります。道具を新調したり、修理したり士農工商も関わってきます。お祭りは人々の活動が全て関わり、どれか一つが欠けても成立しません。まさに人間活動、社会活動の全てが集結する場面ですので、それがこの遠野の社会を作り上げてきたのだと思っています。

全国でも珍しい「子ども流鏑馬」。『遠野物語』にちなんだ珍しい八幡神楽も。

編集部

先ほど流鏑馬のお話もありましたが、子どもの流鏑馬も行われているんですね!これは何歳から参加できるものでしょうか。

ご担当者様

小学校1年生から参加していただけます。そのくらいの年齢の子どもでも教えるとちゃんと射ることができます。毎年5月5日に行うのですが、これは出雲大神祭(いづもおおかみさい)というお祭りで、当社では春と秋に例祭を行っています。秋祭りは遠野まつりですが、春祭りはこの出雲大神祭となり、出雲大社から御分霊を受け当社に帰ってきた日が5月5日なんです。たまたま子どもの日と同じだったため、子どもの流鏑馬をやるのはどうだろうかということで、平成4年に始まったものです。

編集部

子どもたちが乗っているのはポニーでしょうか。

ご担当者様

昔はポニーを使っていたのですが、現在は遠野市内でポニーを育成している方がいないので、青森県の十和田市から馬をお借りしています。この十和田の馬は和種馬という日本の在来馬で、ドサンコとハフリンガーを掛け合わせたドサンコリンガーとよばれる馬です。体長130㎝以下の馬はポニーと呼ばれるため、この馬も定義的にはポニーになると思います。この子ども流鏑馬も恐らく当社だけで行われているものではないかと思います。

編集部

毎年どれくらいの人数が参加されるのでしょうか。

ご担当者様

定員は20名で、だいたい毎年定員が埋まります。GW期間中なので、遠野に帰省してきた市外・県外の子どもたちも参加してくれることがあります。

編集部

ここでしかできない体験ですから、ぜひ体験してほしいですね!

ご担当者様

他に特徴的な部分としては『遠野物語』の110話に当社の権現様が出てきます。権現様というのは、東北の神楽独特の獅子舞のようなもので、それに各神社の神様を宿した状態で神楽団体が各地域を回ります。神様そのものを権現様と呼ぶ、というイメージです。『遠野物語』110話のあらすじをお話すると、この八幡地区の八幡神楽の権現様が巡業して各家を巡り、火伏の祈祷などを行い歩いていました。そのうちに日が暮れて、一晩の宿を取った家がありその家の床の間に権現様を安置していたところ、夜中にガツガツと歯で噛むような音がして、それに気づいて目を覚ますと軒下から出火しており、それを権現様がガツガツと噛んで食い消そうとしていたというお話です。そういったことから、この地域の八幡神楽の団体が披露する権現舞という舞の中では権現様が口から赤い布を垂らし、それを最後に飲み込み火伏を表すという所作があります。権現様は普段はご本殿のご神体を共に祀られているのですが、1月15日のどんと祭の時はご神体の所からお出でいただき、八幡神楽を舞わせてもらうという行事があります。これも当社独自の行事で特徴的なものだと思います。

地域に愛される神社ならではの高校生の尽力による“ホップ和紙御朱印”。

編集部

ここでしかできない体験ですから、ぜひ体験してほしいですね!

ご担当者様

最近ではホップ和紙御朱印が取り上げられるようになってきました。

編集部

ホップ和紙御朱印ですか?それはどういうものでしょうか。

ご担当者様

実は遠野は日本一のホップの生産地なんです。相当なビール好きの方でないとご存知ではないと思いますが(笑)、この冷涼な気候を利用したホップ栽培がとても盛んで、日本一の収量を誇っています。ホップはその蔦の高さが5mほどにもなるのですが、その蔦を何とか再利用できないかと地元の高校生が考え、ホップが和紙の構造に似ているということに注目し、蔦を砕いたり繊維を細かくして和紙を作ったんです。その和紙を使った何かできないということで当社にご相談いただき、それでは御朱印を作ってみてはどうかということで作成したところ、大人気となったんです!ただ、高校生が手作業で作っているものですので、作れる数にも限りがあり毎月40枚限定で第一土曜日にホップ和紙御朱印を頒布しています。朝7時半から頒布しているのですが、あっという間に完売します!また、その頒布日に合わせてマルシェを開催させてほしいというお話も受けて、3年半ほど前から朝マルシェも開催しています。参拝者の中には「現代版の門前町のようですね」と言われる方もいて、これも社会だなと思っています。

編集部

ホップ和紙御朱印の写真、拝見しました。とてもオシャレでここでしか手に入らないものですね!

ご担当者様

手触りもよく、希少価値があると思います。手作業で作っているものなので薄い部分や厚い部分もあり、1枚として同じ紙がないという点がその価値を高めていると思います。

編集部

地域の高校生が神社のために頑張ってくれるなんて嬉しいですね!やはり地域の方に愛されている神社なんですね。

ご担当者様

また、仏教で言うところの永代供養にあたる永代祭祀も行っています。やはりどうしても人が少なくなり空き家が増え、自分の子どもたちも都会へ出て帰ってくる予定もない、すると代々のお墓を守ってくれる人がいないという相談を当社の宮司が多く受け、では当社で永代祭祀をしようということになり、馬場のそばにある遠野市営の墓地の一角を当社で買い取り、そこに永代祭祀の場を作っています。これも全国的にはあまりないことだと思われます。元々顕功神社という、亡くなった方を顕彰する神社を当社が持っていたため、その神社を活用した形です。お宮参りから亡くなられた時まで、全て当社で面倒を見ますよという形です。

今後の展望

この地域の象徴でもある遠野まつりを後世に繋いでいくため、郷土芸能団体への支援は続けていきたいと思っています。また令和9年には1627年に八戸からお殿様が来られて統治を始めてから400年を迎えるため、それを記念して遠野まつりの流鏑馬を更にPRしていきたいと考えています。

流鏑馬の本家である小笠原流流鏑馬の当社境内での奉納を実現しようと動き出したところです。

インタビューまとめ

岩手県と言えば、言わずと知れた盛岡のわんこそばや盛岡冷麺などが全国的に有名です。そして、この遠野市もまた『遠野物語』の舞台となった地であり、そこに登場する物語には、日本人であれば誰もが聞き馴染みのあるお話も多くあり、実は日本人にとってなじみの深い土地でもあります。

今回は、神社の特徴だけでなく「社会」という言葉にまつわるエピソードもお聞きすることができ、個人的にも非常に勉強になったインタビューでした。特に「社会」のルーツをお話されているとき、インタビューにお答えいただいた禰宜様からは、本当にこの神社と地域を愛されているということがとても伝わってきました。遠野まつりというこの地域ならではのお祭りがあり、そしてそこに集う人々がいるからこそ、神社も町も活気に満ちているのだと感じました。

岩手県は未踏の地ではありますが、いつか遠野まつりの熱気を肌で感じてみたいと、強く思えた有意義なインタビューでした。これを読まれた方に、遠野の地に足を運んでみたいと感じていただければ幸いです。

遠野郷八幡宮 アクセス情報

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この記事を書いた人

ラボ編集部のアバター ラボ編集部 編集者・取材ライター

歴史と文化遺産に情熱を注ぐ29歳の編集者、山本さくらです。子どもが1人いる母として、家族との時間を大切にしながらも、文化遺産ラボの立ち上げメンバーとして、編集やインタビューを担当しています。旅行が大好きで、訪れる先では必ずその地域の文化遺産を訪問し、歴史の奥深さを体感しています。
文化遺産ラボを通じて、歴史や文化遺産の魅力をもっと多くの方に届けたいと日々奮闘中。歴史好きの方も、まだ触れていない方も、ぜひ一緒にこの旅を楽しみましょう!

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