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飯盛城跡 日本最初の天下人が愛した、近畿一円を見晴らす城跡。

飯盛城跡石垣の写真

あなたは“天下人”と聞いて誰を思い浮かべますか。多くの人が「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康」という、歴史の教科書に登場したこの3名を思い浮かべるのではないでしょうか。ですが、彼らよりも前に「天下を治めた人物」がいたとしたら…知りたくはありませんか?近年、「信長よりも先に天下を治めていた人物」として名が知られるようになった戦国時代の武将・三好長慶(みよしながよし)。「名前は聞いたことがあるけれど、具体的に何をした人か…」歴史に詳しくない人にとってはそういった存在ではないでしょうか。

今回は、“最初の天下人”として今後歴史の教科書に登場するかもしれない人物、三好長慶が居城していた飯盛城、そして現代にその遺構を残す飯盛城跡をご紹介します。この城跡は全国でも数少ない大阪府大東市(だいとうし)・四條畷市(しじょうなわてし)という2つの市に跨って残されている城跡です。騒乱の時代を想起させるこの城跡の魅力について、大東市の李(り)様、四條畷市の實盛(じつもり)様にお話を伺いました。

目次

飯盛城跡とは

曲輪南側の写真

信長に先んじて当時の天下(畿内と京都)を支配した人物として近年注目を集めている武将・三好長慶。京都を中心とする政治の中心はもちろん、本拠地であった徳島県をはじめとする四国、兵庫南部、奈良と非常に広範囲な領地を治めていました。その彼が最後に居城としたのが飯盛城。現在、石垣をはじめとするお城の遺構を見ることができます。

令和3年に国史跡に指定されて以来、訪れる人も少しずつ増え、地域の方にとっても誇れる場所として認識されています。2025年現在は、今後大東市と四條畷市の2市が共同で保存・活用の計画を立てている最中です。同時に、三好長慶の功績を知ってもらうための活動にも尽力。特に大東市では「大東・三好長慶会」という民間団体の協力を得ながら、武者行列で長慶を登場させるなどその広報に力を入れています。

四條畷市においても調査開始時から発掘調査に力を入れ、当時の飯盛城の様子について様々なことが判明しています。地元で昔から愛されてきた武将・楠木正行(くすのきまさつら)と共に三好長慶の存在をPRし、この城跡に新たな魅力を見出そうと努めています。

【飯盛城跡 特別インタビュー】

石垣①の写真

城跡からの眺望、特徴的な石垣など見るべきポイントが多くある飯盛城跡。地上に残る石垣や曲輪などの遺構からは当時の威厳を感じることができます。

城跡がある飯盛山は古くから両市の市民の方々に親しまれ、現在も毎日登られている方がいらっしゃり、登山時には愉快な地元市民の方に出会えることも。飯盛城はどんなお城だったのか、現在はどんな様子が見られるのか、そして両市が三好長慶に寄せる思いについて、詳しくお伺いしました。

最初の天下人・三好長慶の城。眼下に広がる支配地と、石垣に見る威厳。

三好長慶のイラストの画像
編集部

こちらの城跡は、四條畷市と大東市にまたがる城跡ですね。こうした2つの市に跨っている城跡というのは珍しいと思いますが、他にもあるのでしょうか。

實盛様

私たちが知っている限りでは、大阪の泉佐野市とお隣の熊取町に跨っている城跡があります。また城跡ではなく古墳であれば2市に跨って存在しているものもあるようです。

編集部

では、この飯盛城跡の特徴や見てほしい部分についてお聞きできますか。

實盛様

いくつかあるのですが、私からは眺望についてお話しますね。飯盛城は近年天下人と言われるようになった武将・三好長慶の居城でした。長慶は織田信長に先駆ける天下人と言われています。当時は室町時代ですが、その頃の天下は畿内と京都を指していました。長慶は将軍・足利義輝を京都から追放し、その後も将軍の力には頼らずに自らの力のみで政治を行っていたと言われています。室町幕府が誕生してからそういったことを初めて行った人物が三好長慶なので、信長よりも先の最初の天下人だと最近分かってきたようです。その長慶が永禄3年(1560)に入城したのが飯盛城です。飯盛城からの眺望は270度とよく言われるのですが、京都から神戸の六甲山、大阪市内、大阪湾、遠くは明石海峡大橋なども全て見渡すことができます。長慶の本拠地は徳島県だったため、香川などの四国、淡路島の他、京都、大阪、神戸など飯盛城から見える場所は長慶の支配地でした。当時の政治の中心地であった京都も支配下に治めていたため、日本の政治を動かしていたことが分かります。

眺望の写真
編集部

三好長慶の名前は聞いたことがありますが、そんなに立派な功績のある方とは知りませんでした。最初の天下人となれば、もっと知られてほしいですね!

實盛様

さらに山の麓に行くと当時は深野池(ふこのいけ)という池があり、そこから船で大阪の堺まで行くこともできました。堺は当時の商業の中心地でもあったためそこを抑えておくことは非常に重要でした。こうして長慶は政治・商業共にその中心地を抑えることに成功しました。今もお城の上からは先ほど言ったような場所が全て見えるので、登られた際にはぜひ見てほしいと思います。

編集部

それだけ広範囲に見える場所、というのはかなり珍しいですよね。

實盛様

標高は314mなのでとても高い山、というわけではないんですがよく見晴らせる場所にあります。豊臣秀吉と明智光秀が戦った京都の天王山や対岸の石清水八幡宮、現在のランドマークで言うとあべのハルカスをはじめとした大阪市内のビル群や京都タワーも見えます。運がいい日には明石海峡大橋も見えることがあるので、来られた際にはぜひ眺望を楽しんでほしいです。

編集部

では、李様からも城跡の魅力についてお聞きできますか。

李様

私からは飯盛城跡の石垣についてお話しますね。まず、石垣が立派なことはもちろんなのですが、城全体の構造を見てほしいです。城は軍事施設ですが飯盛城は居城でもありました。昔は山麓に居館を構えるお城が多かったのですが、飯盛城は山の上にも居館を構えているお城です。軍事拠点でもあり政治拠点としても利用されていましたので、そういった構造を見ながらどんな部分を守ろうとして、どんな防御の仕掛けがあり、どんな目的でこのお城が造られたのかを考えながら登ってもらえれば嬉しいです。城跡のうち四條畷市側には御体塚曲輪(ごたいづかくるわ)という場所があるのですが、その北側に城内最大の堀切(尾根を断ち切るように造られた堀)があり、尾根伝いに侵入しようとした敵を防いでいたと考えられています。また、当時のお城の多くは出入口が分かるとそこから侵入されてしまうため、出入口が分かりづらい構造が多かったのですが、飯盛城は東西の虎口(こぐち)の場所がハッキリと分かる造りになっています。西側には土塁が築かれた曲輪があり、虎口から侵入する敵を攻撃するような仕掛けもありますので、そういったこの城ならではの造りを見てほしいと思います。

虎口の写真
編集部

しっかりと考えて造られたお城だったんですね。出入口がハッキリと分かる造りだった、というのは確かにお城ではあまり聞かない話です。

李様

飯盛山を歩いていると突然平坦な場所が現れるんです。山は普通斜面ですから、平坦な場所は人工的に作られた場所ということになります。当時に山を大規模に造成する土木的な技術があったということが分かります。当時の土木技術を知れる点も面白い見どころだと思います!石垣についてですが、石垣は16世紀後半のものにしてはかなり高い石垣だと言われています。近世城郭のように5m、10mあるというものではありませんが、3mほどはあるような石垣が現在も所々に残っているので、その高さも見ながら歩いてもらえればと思います。そういった石垣が目につきやすい場所に残っているということは、城に来る人に石垣を見せ城主の威光を知らしめていたとも考えられます。見ていただけない部分もありますが、見える部分には当時の歴史やロマンを感じることができるので、そういった点に注目してほしいです。

編集部

石垣が本当に立派なんですね!四條畷市さんのホームページでも拝見したのですが、『石垣ガイド』という物が作られるほど特徴的なものなんですね。

李様

飯盛城の特徴に本格的な石垣が取り入れられていることが挙げられます。他の城でも高さが低い石垣は多く築かれていますが、飯盛城のように2m~3m積んでいるお城は珍しいです。長い石垣もあり、大東市側で44mもある石垣も残っています。高さも2m以上ありますし、当時に築かれたものとしては本当に立派なものです。

地元市民からも愛される城跡。令和3年には国史跡にも指定。

石垣②の写真
編集部

では、現在の飯盛城跡についてお伺いします。現在の状態で整備されているのはいつ頃からでしょうか。

實盛様

実は整備はあまりされていないんです。令和3年に国史跡になったばかりで現時点ではまだ整備の計画を立てているところなんです。ただ、飯盛山自体は昭和の初期頃から公園が作られていたりかつての旧制中学校だった四條畷中学(現在の四條畷高校)の生徒の方が毎日登山される場所だったようです。戦後も近場で山登りができるような山ということで四條畷市や大東市の市民の方には親しまれていたようです。今でも毎日登られている方はいらっしゃいます。滋賀県立大学で城郭などを研究されている名誉教授の先生からは、「こういった山城で毎日人が登っている山というのはかなり珍しい」と言われていて、現在も市民の皆さんに愛されている山です。比高差で言うと250~260mほどで頂上までに要する時間は1時間ほどで、登るのにはちょうどいいんです。

編集部

確かに健康の為に登るにはちょうどいいコースですね。今後は整備を進められる計画はあるのでしょうか。

實盛様

現在、お城の案内板や説明板などをまだ立てられていないのでそういった点はもう少し充実させたいです。

編集部

城跡として見学に来られる方はどれくらいいらっしゃるのでしょうか。

李様

年間に訪れる方の数を正確に把握はできていないのですが、実感として国の史跡になってからは城跡を見学に来られる方は増えていると思います。地元の方のお話になりますが、城山に毎日登られている方が何人かいらっしゃるんです。私たちも情報収集のためにたまに会いに行くんです(笑)すると、「史跡に指定されてから来る人が増えたように思う」「関東からの人も多い」など、色々と教えてくれるんです(笑)なので、やはり人は増えているという印象です。

編集部

すごいですね!やっぱり関西の方ですね! “関西のおっちゃん”ならではノリだと思います(笑)ちょっとしたガイドさんのような存在ですね(笑)

李様

そうかもしれません(笑)正確な人数は分かりませんが、見学者は増えていると思います。城内でも散策マップを持って歩いている方を見ることも増えました。

編集部

本当に地元の方にも愛されている山なんですね!では、こちらへのアクセスはどうでしょうか。

李様

最寄り駅はJR学研都市線の四条畷駅または野崎駅です。どちらからでも同じくらいですが、令和5年に飯盛城跡の見学者用の駐車場を大東市立野外活動センター「キャンピィだいとう」の東側に整備しました。広さとしてはマイクロバス1台、車なら15台停められるようになっています。そこから歩いて20分ほどでお城まで行くことができます。車でのアクセスの方がオススメですが、JR住道(すみのどう)駅から近鉄バスで竜間(たつま)というバス停で降りると、少しだけ登山を省略することができます。竜間のバス停から頂上までは徒歩40分ほどかかりますが、下から登るよりはしんどくないので、全部登るのはしんどいな、という方はバスも利用していただければと思います。

2市で“推す”三好長慶。四條畷ではライバル武将も。

編集部

飯盛城、飯盛山は地域の方に愛されている山というお話もありましたが地域の方と交流しながら実施されているイベントはありますか。

李様

大東市には、「大東・三好長慶会」という会があり、大東市を盛り上げる意味で長慶を好きな方が集まって彼の功績を顕彰しています。要請があれば飯盛城跡のガイドも行っていて、長慶の武者行列も市の観光振興課と共同で毎年実施しています。特に武者行列は三好長慶会の方たちにご協力をいただいていて三好長慶や飯盛城跡で観光や人を誘致する事業を行っています。武者行列では毎年三好長慶役を誰がするかを様々な方法で決められているのですが、2024年は全国の三好姓の方から公募を掛けたと聞いています(笑)

編集部

決め方も関西ならではのユニークな内容でお聞きする情報全てに興味が湧きます(笑)

實盛様

大東市さんは今仰っていたようにしっかりと三好長慶を推してPRしているんですが、四條畷市は実は少し複雑な状況なんです…。

編集部

と、言うとどういうことでしょうか。

實盛様

実は四條畷市にはもう1人昔から知られている楠木正成の息子であった楠木正行(くすのきまさつら)という方がいるんです。正行が敗北した戦いを「四条畷の戦い」と呼んでいるのですが、時代で言うと南北朝時代の頃です。そういった関係で、飯盛山の頂上には正行公の銅像が昭和12年に建てられています。一度戦争により金属供出がありましたが、昭和47年頃に大東市の方が出資をされて再建されたものが現在の銅像です。そういった背景があるので、四條畷市民の方にとっては飯盛城は楠木正行のお城、というイメージがあるんです。そのように推したい武将が正行と長慶、2人いるのでどうPRしていくべきか悩んでいるところです。

楠木正行銅像の写真
編集部

確かにそれは複雑ですね…!

實盛様

市民の方にとっては、やはり昔から馴染みのある正行の方が馴染みがあります。四條畷でも武者行列が開催されたことがあったのですが、その際に出てきた武将もやはり楠木正行なんです。ですが、せっかく最初の天下人と言われるようになった人物と所縁があるわけですから、そこに触れないというのももったいないと感じていて今後どう広報していくのがベストか模索しているところです。

編集部

そうなんですね…。それは非常に難しい問題ですね。どちらも推したいけれど、古くからの馴染みを大切にするか、新しい話題作りとして推していくか…どちらも大切にしたいと思われるところだと思いますが、同時にPRというのは難しい部分も多いですよね。

實盛様

大東市役所さんの前には長慶の銅像もあるんです!

編集部

そうなんですか!?なるほど…大東市さんはガッツリ長慶を推していらっしゃるのがよく分かりますね…!2市に跨っている遺跡なだけに広報の仕方を統一すべきかどうか複雑ですね…。

實盛様

そうなんです(笑)三好長慶はかつての大河ドラマ『麒麟がくる』にも登場していたと思いますが、今後は最初の天下人として信長の前に教科書に登場する人物になってくれればと思っています!

李様

ただ、長慶は飯盛城に居た時期はそんなに長くはないんです。在城はおそらく4年ほどでその後亡くなってしまっています。城主は、飯盛城を築城したと考えられる木沢長政、その次が現在の大阪府交野市(かたのし)出身の安見宗房(やすみむねふさ)、そして最後が長慶です。一番長く飯盛城主であったのは木沢長政ですが、最後が長慶だったため現在のような石垣の城に改修したのはおそらく長慶だろうと考えられます。

城跡にまつわるエピソード

秘匿された武将の死。長慶と神との関わりにも注目。

飯盛城の中には「三好長慶が仮埋葬されていた」と言い伝えのある御体塚曲輪(ごたいづかくるわ)と呼ばれる場所があります。長慶は1564年に城内で逝去しますが、その事実を敵に知られることを恐れ彼の死後3年間、逝去の事実は秘匿されていました。飯盛城はその敷地のうち3分の2が大東市域、3分の1が四條畷市域です。四條畷市と大東市で共に飯盛城跡の調査を行うことになった際、四條畷市側でどこか発掘調査で成果がありそうな場所はないかと考え、御体塚曲輪の発掘に着手しました。調査開始時にこの曲輪の真下で石垣調査をしたところ、瓦が出土。ですが瓦は石垣に使われる物ではなく、真上が御体塚曲輪だったためこの場所に本当に建物があったのかもしれないと仮定され、発掘調査を進めることに。すると建物跡が発掘され、現代のタイルのようなものを建物の基礎部分に使用していたことも分かりました。おそらく建物の壁は土壁で、下方部は風化しやすいためタイルを張り補強していたと考えられています。そういった発掘があったことで、実際に建物が建っていたと結論付けられました。他にも石組の基礎のような物が出土し、そのすぐ側から台の付いたお皿が発掘されました。ですが、戦国時代に台付きのお皿は使われていないはず。調べを進めていくと奈良の春日大社という神社で、そうした台付きのお皿などが使われていたことが分かりました。

台付きの皿の写真

現在でも春日大社では神様にお供え物をする際には台付きのお皿を使用しており、彼の領地に奈良も含まれていた関係から長慶も神様への捧げ物用のお皿として使用していたと考えられています。それはつまり、この御体塚曲輪が神様などにまつわる宗教的な場所であった可能性を示唆しています。三好長慶は1560年に飯盛城に入城しますが、入城後最初に行ったことが自身の先祖に関わる神様を飯盛城に移すことでした。現在の滋賀県大津市にある園城寺(おんじょうじ)鎮守社の一つに新羅善神堂(しんらぜんしんどう)というお社があり、当時の公家の日記には、長慶が新羅善神堂にお祀りされていた神様を飯盛城に移した、あるいは移そうとしたのではないかという記録が残っています。元々、お寺やお堂など神様がいた場所だったのであれば、長慶が亡くなった際に埋葬はせずとも仮安置されていた可能性は充分にあります。それ故に長慶の遺体を仮埋葬した場所という言い伝えもあながち無視できないものなのです。

キリスト教布教にも尽力。日本最古のキリシタン墓碑も出土。

信長よりも先に、という点では長慶はキリスト教の布教も許可しており、長慶やその跡を継いだ義継(よしつぐ)の時代には、この地域にはキリシタンがとても多かったと言われています。長慶の家臣も複数名洗礼を受けた記録が残っており、日本最古のキリシタンの墓碑も四條畷市から出土しています。またその墓碑は一般的な農民などではなく、この地域の土豪(特定の地域の豪族・地方で勢力を持っていた者)であった「田原礼幡(たわられいまん)」という人物の墓域です。その一族の菩提寺の境内墓地から発掘されたもので、わざわざ穴を掘って埋められていたため、後に禁教令が出された際に穴を掘って埋めたものだと考えられています。この田原礼幡という人物は文献にも名前が記されており、キリシタンのお墓として文献に出てくる名前と一致する唯一の人物です。

今後の展望

李様

現在、飯盛城跡を今後どう整備していくか、そういった計画を練っているところです。今後は飯盛城跡が地域間・世代間交流の場になればと思っています。大東市としては飯盛城跡が史跡たる理由を守っていく必要がありますので、遺構の保護などそういった点にも注力しながら人に来てもらい交流が生まれるような場所になってほしいと思います。そのために様々なイベントも企画していきたいです。現地では、当時の建築土木技術を垣間見ることもできますし、城跡は完全な状態ではありませんが、地上に残っている遺構も多くあるため、実物を見られるというのも魅力です。戦国時代の雰囲気を体感できるような場所、そして地域のランドマークとなるように整備していきたいです。

實盛様

四條畷市民の方からは「四條畷は城跡のPRにあまり力を入れてないんじゃないか」、大東市の方からは「大東市は四條畷の取り組みに負けているんじゃないか」と、両市の方から自分たちの市へのダメ出しの声を頂くことがたまにあるんです…。今後はそう言われないようにもっと前面に出してPRしていきたいです!案内板や説明板を立てるとなれば、そういった点でも大東市さんと同じ仕様で歩幅を合わせながらやっていきたいと思います。行政区が違うからと言って現地で雰囲気が異なる部分があってもおかしいので、そういった点は同じ目線で整備を進めていきたいです。

インタビューまとめ

今回、飯盛城跡について取材させていただくにあたり、最初に四條畷市様へ声をかけさせていただいたところ、ご担当の實盛様より「もしよければ、大東市さんへもインタビューを行ってほしい」とお話を頂き、2市合同でお話を伺うことができました。これまでにもお2人で受けられた取材があったようで、インタビューの雰囲気も和やかで、お2人の間で同じ史跡を守っていく者として信頼関係が形成され、2市での整備や広報活動がスムーズに行われているのを感じました。

現代に至るまで、多くの人々に見守られ愛されてきた飯盛城跡。時代は変わっても、そこから見晴らす景色の中には戦国の世に武将たちが見た景色もあるはずです。この先も、2つの市の尽力によりその風景と城跡は脈々と受け継がれ、今後はさらに三好長慶の名を「最初の天下人」として全国に知らしめ、より多くの人々が訪れる場所となるでしょう。

飯盛城跡 アクセス

飯盛城跡
【電車でのアクセス】
・JR学研都市線「野崎」駅、「四条畷」駅より、徒歩で山頂までお越しください。
・野崎観音、または四條畷神社からのハイキングコースをご利用ください。
・ハイキングコース利用時、四条畷駅から上り100分、野崎駅から上り90分

【バスでのアクセス】
・住道駅発・生駒登山口行きバスがご利用いただけます。
・「竜間」バス停より徒歩約40分
※住道駅・四条畷駅周辺にはコインパーキングがございます。
「キャンピィだいとう」前の飯盛城跡駐車場もご利用いただけます。

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この記事を書いた人

ラボ編集部のアバター ラボ編集部 編集者・取材ライター

歴史と文化遺産に情熱を注ぐ29歳の編集者、山本さくらです。子どもが1人いる母として、家族との時間を大切にしながらも、文化遺産ラボの立ち上げメンバーとして、編集やインタビューを担当しています。旅行が大好きで、訪れる先では必ずその地域の文化遺産を訪問し、歴史の奥深さを体感しています。
文化遺産ラボを通じて、歴史や文化遺産の魅力をもっと多くの方に届けたいと日々奮闘中。歴史好きの方も、まだ触れていない方も、ぜひ一緒にこの旅を楽しみましょう!

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