仏教は中国より日本に伝わり、今日に至るまでその精神は日本人の暮らしに深く根付いてきました。そして世界には仏教だけでなくさまざまな宗教が存在し、それを信仰する人々の心の拠り所となっています。ただ、多くの宗教では他の宗教とは交わることが少ないという面もあり、他の宗教や宗派の人々と同じ場で同じ宗教行事に参加するということはほとんどありません。
ですがこの長徳寺は、かつて隠れキリシタンを受け入れた過去がある縁で、お寺のご住職様とキリスト教の神父様と牧師様、この3者が一堂に会し寺院境内でミサが行われるなど、非常に革新的な試みが行われています。
同時に古くからの伝統行事も受け継がれており、これまでの歴史とここからの時代の流れ、どちらも大切にされている寺院です。今回は寺院のご住職様へこの寺院の歩みと現在の試みについて詳しく伺いました。
長徳寺とは
寺院創建は600年以上前となり、開山当初は天台宗のお寺として建立されましたが、その廃寺となり時を経て宗派を時宗に改めて長徳寺としての歴史が始まりました。
地名の「藤沢」の由来は神奈川県の藤沢市と深い関係があり、同じような縁で東北の各所に藤沢という地名が残されています。御本尊様である阿弥陀如来様は岩手県の指定有形文化財に指定されており、訪れた方はいつでもその姿を見ることができます。
また、「蘇民祭(そみんさい)」という伝統行事が今も行われており、コロナ禍を乗り越え現在も参加者が年々増えている行事です。ご住職様は寺院での住職としての活動だけでなく臨床宗教師として病院や福祉施設、災害などの被害に遭った被災地へ赴き、多くの人々の心の支えとなる活動をされています。600年以上の時の流れと、目まぐるしく変化する現代の時代の流れを読み、これから先寺院がどうあるべきかを考える寺院様です。
【長徳寺 特別インタビュー】
お寺や神社はかつて、その地に暮らす人々の心の拠り所となるような存在でした。現代ではその役割が変わってしまった面もありますが、それでも昔から同じ場所に変わらずあるものに人々は安心感を覚え、季節毎のお参りや行事に多くの人が参加しています。
そして、寺院側でも地域の人々との交流を深めるため、さまざまな取り組みを行っています。長徳寺では手芸の会を開催したり、写経も行われています。いつでも地域の方々が気軽に集まれるコミュニティとして、変わらぬ姿をその地に留めています。
天台宗から時宗へ。神奈川の藤沢にも縁がある、地名の由来。
編集部本日は岩手県一関市藤沢町に所在する長徳寺様へのインタビューです。インタビュー前にホームページを拝見し、メールでも寺院に関する資料を頂きありがとうございました。そちらにて藤沢という地名の由来を拝見しましたが、まずはこちらについて詳しくお聞きできますか。



藤沢町の藤沢は神奈川県の藤沢市と関係があります。当寺の本山が神奈川の藤沢にあり、毎年箱根駅伝で遊行寺坂(ゆぎょうじざか)という坂が出てきますが、その遊行寺というのが長徳寺の宗派であります時宗の総本山となります。そこからかつてお上人さんが全国を旅されましたが、当時の旅は命がけのものでした。そして東北の地というのは亡くなる方が多いんです。そして、神奈川の藤沢から来たお上人さんが亡くなった場所ということで藤沢という地名が付いたそうです。この町以外にも東北にはいくつか藤沢という地名があります。



そういったご縁があるんですね。では、長徳寺様の創建のご由緒などをお聞きできますか。



創建は嘉慶2年(1388)、室町時代となり今から600年以上昔のこととなります。一遍上人さんから数えて12代目のお上人さんがこちらへ来られたことが創建のきっかけとなりました。元々当寺は天台宗のお寺だったのですが、廃寺になってしまっていました。ですが、それを時宗に改めて長徳寺として創建したそうです。その創建されたお上人さんは第90代天皇であった亀山天皇のお孫さんにあたる方でした。



元々は天台宗のお寺だったんですね!



当時、このお寺は吉野屋敷佐藤氏の菩提寺として、保呂羽(ほろわ)院之沢の地に建てられ、天台宗の三文寺(さんもんじ)と呼ばれていました。しかし、後に佐藤氏の庇護が途絶えると寺は荒廃し廃寺となりました。その後、嘉慶2年に亀山天皇のお孫さんである尊観法親王(そんかんほっしんのう)が出家され、時宗の遊行第十二世として全国を巡る旅をされ、この廃寺を訪れ再建し、宗派を天台宗から時宗と改め寺号も「長徳寺」としました。これが長徳寺の起源となります。



長徳寺として新たな歴史をスタートさせ、今日まで歴史が続いているんですね。



戦国時代には、佐藤氏の子孫である信繁がこの地に移り住み、信基(慈阿弥)が出家し、本尊・慈覚大師作の三体の仏像を安置し、それが現在の御本尊の由来となっています。そしてそこから数百年後、江戸時代に入るとキリシタンの弾圧が行われ、多くの信者が当寺に転宗を求めたことで檀家が増加し、天和2年(1682)には、堂宇を現在の冨袋沢に移し、山号を「不退山」、寺号を「合掌院長徳寺」としました。明治に入ると神仏分離が起こり、当寺でも牛頭天王のお祀りを一時中断しましたが後に復興し、昭和54年(1979)には、檀信徒の尽力により本堂が再建され、現在の立派な伽藍が完成しました。尊観法親王の再建から600年以上、慈阿弥による開山から500年近く、一遍上人の教えを守りながら今日に至っています。
コロナ禍でも続いた伝統行事。全国から参加者が集まる蘇民祭。



では、訪れた方にぜひ見てほしい寺院の見どころはどういった部分でしょうか。



まずは御本尊様である、木造の阿弥陀如来様です。こちらは鎌倉時代の作品と言われ、現在岩手県の指定有形文化財に指定されています。この御本尊様の姿はいつでもどなたでもご覧になれますので、ぜひ近くでご覧になりお写真なども撮っていただければと思います。





次に特徴的なものと言えば、蘇民祭です。このお祭りは岩手県各地で行われるお祭りであり「岩手の蘇民祭」として選択無形民俗文化財に選択されています。お祭りでは、全裸に下帯だけを身に付けた男性たちが蘇民袋と呼ばれる袋を取り合う蘇民袋争奪戦(袋ねじり)が行われ、お祭りが盛り上がる場面です。女性たちはそんな男性たちを精進料理である名物「けんちん汁」でもてなします。現在、岩手県内では5か所ほどで行われており、当寺の蘇民祭は131年目を迎えます。毎年3月の第一日曜日に開催され、まだ寒い中で下帯だけを付けた男性たちが水に入り気を引き締めます。



蘇民祭の蘇民とはどういった意味でしょうか。



これは『備後国風土記』に登場する、貧しい中でも旅人たちに親切に接した蘇民将来(そみんしょうらい)という人物の名前が由来となっており、お祭りの目的としては疫病退散となります。かつて、蘇民将来と巨旦将来(こたんしょうらい)という兄弟がおり、疫病の神様が一晩宿を借りたいとまずお金持ちであった巨旦将来を訪ねました。すると断られてしまい、貧しい暮らしをしていた兄の蘇民将来の元を訪ねました。蘇民将来は貧しい暮らしではありましたができる限りのもてなしを行い、その施しに感銘を受けました。そして後日、その地域で疫病が流行した際にその神様は「自分は蘇民将来の子孫である」と言われ、茅の輪を飾れば助かるとお話になり、茅の輪を飾ったところその蘇民将来の一族は助かり、巨旦将来の一族は滅びてしまったという物語があります。元々は岩手県内で疫病退散のお祭りとして30箇所ほどで行われていましたが、人手不足が加速しコロナ前には11箇所ほどに減少していました。ですが、コロナが流行しその11箇所からさらに減ってしまいました。疫病退散のお祭りであるのに、疫病が流行してできなくなってしまったんです。



なんとも皮肉なお話ですね…。その中でも長徳寺さんは続けられたんですね。



何とか続けました。ただ、蘇民袋争奪戦はやはり密になってしまうので取りやめて、男性の皆さんが裸で川に入るなどの催しは密にならない範囲で行いました。現在は5箇所ほどで行われるに留まっています。







コロナの時は本当に何もできなかったですからね…。それでも頑張って続けられたこと、本当に素晴らしいと思います。せっかくの伝統行事ですし、疫病退散のためのお祭りですから、ぜひこの先もコロナのようなことにならないよう続けてもらいたいです。蘇民祭は3月に行われ川にも入られるということですが、岩手県の3月はまだまだ寒いイメージです…。



近年はだいぶ温かくなりましたが、2年前は-4℃でした。朝8時から始まるのですが、一番最初に川に入ります。これは全国から参加される方がいて、一斉に皆さん川に入ります。裸祭りは暫く休んでおりましたが、2012年に50年ぶりに復活し、参加者は年年増え、現在は約50名の方が裸祭りに申し込みされております。長徳寺蘇民祭の一般の参加者は、私が住職に就いた頃は約30人ほどでしたが現在は300人ほどの方が参加されています。



約10倍とはすごいですね!



恐らく来年はもっと多くの方が来られると思います。仙台駅前と一関駅前から観光バスツアーも決まり、町全体を盛り上げていただいています。本当にありがたいことだと思います。



どこの地域も人口減少の時代ですから、こちらから発信できることは発信していきたいですね。



色々と挑戦して何が良いか、それがモデルケースとして他の寺院さんにも参考にしてもらえれば嬉しいです。今は後継ぎ問題もあります。檀家さんも減っていますし、お墓がなくなり、お寺を継続できず合併…ということになります。だからこそ見ているだけではなく何が必要なのかを考えるべきです。AI時代になりますが、そんな時代だからこそ何が必要なのかを重視すべきだと思います。先日は幕張メッセで行われた「AIエキスポ」というものにも参加しとても勉強になりました。



本当にさまざまな取り組みが行われているんですね。蘇民祭の様子もYouTubeで配信されていますが、とても活気がありますね!



本当に全国から問い合わせを頂きます。普段は静かなお寺ですが、その日だけは境内が人で埋め尽くされるほどです。キッチンカーなども出ますし、参加者用の大きなお風呂も用意します。冷たい所から急に熱い所へ入るのは危険なので、一度ぬるめのお湯に浸かってから熱いお風呂へ入っていただきます。本当に泥だらけになってしまいますので、しっかりとその汚れを落としていただきます。



蘇民祭にはエピソードがたくさんありますね!
隠れキリシタンとの縁も。宗教の融合で世界平和への一歩を。



また、この藤沢という町は隠れキリシタンの故郷とも言われています。



そうなんですか!東北とキリシタンはあまり結び付くイメージがありません。



隠れキリシタンというと長崎をイメージされる方が多いと思いますが、実は東北にもその縁があり、約300人の方が殉教されています。



そんなに多くの方がですか!



この事実についてはまだまだ知らない方が多いので、これからホームページなどでもPRをしていきたいと思っています。当寺は隠れキリシタンを受け入れたお寺でもあります。そして数年前に境内にキリシタンが殉教した慰霊碑を建立し、カトリック、プロテスタント、仏教と3つの宗派が融合し、神父さん、牧師さん、僧侶で境内でミサを行いました。他のお寺ではありえないことだと思います。





その3つの宗派が一堂に会するとは、なかなかお聞きしない話です…。



実はそのミサを執り行ったことについて、ローマ教皇に手紙を出したんです。



ローマ教皇にですか!?それはすごいですね!



東北にいらっしゃるカトリックのトップの司教さんが私の手紙をスペイン語に訳してくださり、ローマ教皇に渡してくださいました。ミサの様子を収めた写真も同封し、その写真は当寺の本堂にも飾っています。実はそのミサを行ったのが、ちょうど世界情勢が大きく緊迫した時だったんです。そういった時だったからこそ宗教者として何ができるのか、という世界平和への第一歩を踏み出したと思っています。そういったことを将来の時代を生きる方々にも伝えていきたいと思っています。



日本の寺院として何ができるのか、遠い国で起こっている出来事でも自分にできることを考えることは大切ですね。



カトリックとプロテスタントが共に、ということもほとんどありませんが、世界平和への第一歩として「みんなで同じ方向を向く」ということが大切だと思います。その一歩を踏み出せたと考えています。また、江戸時代には長徳寺の住職がキリシタンの慰霊碑を建立しているんです。その石碑に書かれている南無阿弥陀仏の文字と同じ文字を今回も刻みました。新しく執り行ったわけではなく、江戸時代にキリシタンの殉教があったという歴史の伝承の慰霊碑という意味合いで作りました。



「みんなで同じ方向を向く」これは人間が常に考えなければならないことでもあり、いつの時代も実現が難しいことです。ですが、この寺院ではその一歩を刻まれたこと、とても素晴らしいことと感じます。



禁教時代は殉教者に対しても拝むことを禁止されていたような時代もありました。ですが、やはり村人たちがその人たちの霊を見たり、何かが聞こえたというようなことで悩んでいたそうです。そこで、当時、長徳寺の和尚さんが殉教者の慰霊碑を作ったところ、そういった悩みがなくなったという伝説もあります。現在はキリシタンツアーと銘打って、全国からたくさんの牧師さんや神父様がお寺へ来られています。また私は臨床宗教師としても活動をしています。



臨床宗教師とはどういった活動でしょうか。



大まかに言うと公共空間での傾聴活動です。たとえば緩和ケア病棟などの病院や福祉施設、被災地などで布教などを目的とせず、そこにおられる方々の心のケアを目的とする活動です。東日本大震災発生後に東北大学で育成が始まり、現在は全国で200人ほどが臨床宗教師として医療の現場に赴いています。地域包括ケア活動の一環という認識で活動しています。
手芸の会、写経も。飛鳥時代から続く“地域の拠り所”を実現。





他には、本日も行っていますが、手芸の会を寺院内で開催しています。





手芸の会についてはホームページでも拝見しました。どういった内容なのでしょうか。



これは月2回行われており、地域や宗派を問わず地域のご婦人方や男性の方も参加されている会です。手芸をやりながら皆さんでお漬物や煮物などを持ち寄り、お茶や手芸を楽しんでいます。毎年、年に2回製作目標を作っており11月の文化祭、そして春の蘇民祭に向けて製作物を製作しています。



目標があるとより頑張れますよね!



また、国際スポーツ&ウェルネスウィークエンドというイベントの岩手県のアンバサダーにも就任しており、昨年ウェルネスチャンピオンということでビッグサイトで受賞式にも参加しました。また、個人的な活動ですが、車のナンバープレートをデザインしています。



ご自身でデザインされているんですか!?



はい。国土交通省で作っている図柄入りナンバープレートというものがあり、平泉ナンバーのナンバープレートの図柄をデザインさせていただきました。



ナンバープレートのデザイン、ホームページで拝見しましたがかっこいいですね!このゴールドがとても素晴らしいです!





そのゴールドは、平泉の中尊寺金色堂のイメージです。円は世界平和を表し、川は北上川という大きな川、そこに散りばめられた模様は中尊寺金色堂にある螺鈿でできたマークです。世界中の産物や鉱物で作っているマークで、子どもたちは岩手の宝なので、将来大海原へ出てほしいというイメージで散りばめています。とてもありがたいことです。たまに走っている車についているのを見ると嬉しくなります。



手芸やデザインなど、芸術面にも秀でていらっしゃるんですね!



実は私は元々このお寺の出身というわけではないんです。愛媛で生まれ、育ったのは仙台で、サラリーマン時代には広告代理店などにも勤務していました。そういったこともあり、デザインにも携わらせていただきました。神社の行事には地域おこし協力隊などの若い方も一緒に参加され、活気で賑わっています。病院や福祉施設など伺った先でまた地域の方との交流も生まれ、多くの方と交流することができています。これからも地域をデザインして参りたいです。これからの時代は、寺院の歴史や建物の重要性などのハード面のPRももちろん必要ですが、そういったソフト面でも宗教や宗派に囚われず、さまざまな取り組みを行っていきたいと思っています。地域の方の心の拠り所となることを目指しています。
先程お話した、国際スポーツ&ウェルネスウィークエンドも、理念として地方創生や健康街づくりなどを掲げておられ、我々の目指している理念と一致すると思い、参加させていただきました。皆さんの暮らしのウェルネスプレイスとして展開できればと思います。



地域の方にとってもこうして気軽に集まれる場所があるというのは、とても良いことだと思います。



実はこういったことは聖徳太子も飛鳥時代に行っているんです。四箇院(しかんいん)制度と言って、1つは普通の寺院、1つは病院、1つは福祉施設、1つは薬局という地域包括ケアが飛鳥時代からできていたんですね。飛鳥時代にできていたことですから現代でも同じように地域社会で拠り所となる場所を作りたいと思っています。
神仏習合を感じる三社堂も。長閑な環境で健康的な暮らしを。



では、寺院内の建築物の特徴や、周辺景観についてお聞きできますか。



町の雰囲気としては非常に長閑な場所です。ここには岩手サファリパークもあるほどで、とても自然豊かな場所だと言えます。境内にはカモシカやニホンジカも遊びに来ますし、タヌキやキツネは日常的に目にすることができます。



野生動物が遊びに来るんですね!都会ではまず見ることができない光景で羨ましいです!



またそういった環境なので、星がとても綺麗です。真っ暗な空に満点の星が輝いているのを見ることができるので、時を忘れて星を眺めることもできます。田舎、という表現もできますが本当に自然に溢れた穏やかでいい町です。空気が良い証拠として、私自身、高校時代に一年間入院するほどのアトピー性皮膚炎を患っていたのですが、この町に来てからはすっかり良くなりました。やはり水も綺麗でおいしいですし、生活スタイルも良くなったのだと思います。



やはり暮らす場所の空気というのは、人の心身に影響するものですね。



そうだと思います。寺院として何か新しい試みをしたいというようなアイデアもこういった静かな場所だからこそ生まれてくるものだと思います。買い物などは都会に行けばできますので、本当にこの環境に身を置くことができてよかったと思っています。



都会で暮らしていると自分が何を大切にしないといけないのか、見失ってしまうこともあります。そういった長閑な環境で過ごすことは、人にとってとても大切なことです。では、境内の建築物で特徴的なものはありますか。



新しいものの話になりますが、今年新不動堂が建立しました。今年の3月に落慶し、市長さんと共にテープカットも行いました。また、境内の建物は本堂以外はほとんど解体して新しく再建したものなんです。本堂の骨組みや山門は江戸時代のものですが、それ以外は生まれ変わったもので、私の代になってからは駐車場を作るなど大々的に新しくしています。不動堂は蘇民祭のメイン会場となる場所で本尊の不動明王坐像が祀られています。そして、その不動明王坐像の胎内に不動明王立像がいます。つまり胎内仏ということです。それは10年に一度御開帳しており、元々隣町の花泉町油島に修験智拳院道場の本尊と云われ、その後、曹洞宗満昌寺に遷座され、火災後に御縁を頂き、今から131年前に長徳寺へ遷座したそうです。そして、その際に一緒にこちらへ伝わったのが蘇民祭です。



これが蘇民祭に繋がってくるんですね。



他に三社合祀社殿という建物もあります。神社も境内の中にあるという形で、祇園祭りのようなものも夏に行っています。熊野社と祇園社と天神社、菅原道真公も祀っているので三柱の神様を入れている三社合祀社殿というものもあります。夏のお祭りはその三社祭です。





では、地域の方との交流についてお聞きします。先ほどお話いただいた手芸の会やウェルネスクラブの話以外に、地域の方と交流されている行事などはありますか。



他には、バスツアーや研修なども受け入れています。大体月1~2回ほどで、いろんな方がバスで来られます。ほとんど口コミのような感じですが他の宗派のお寺の奥様方が来られることもあれば、宮城県内の神父さんが来られることもあります。キリシタン関係の史料館なども近くにあるので、そちらと一緒に巡られているようです。他には、東北大学や教育委員会などと共同で地域のお宝伝承プロジェクト。また、地域包括ケア関連として病院や福祉、大学。他には企業などが研修で来られます。
今後の展望
今後は、健康な町づくり・地域創生・インバウンドの3本柱に力を入れ、地域のウェルネスプレイスとして第3の居場所のような存在になりたいと思っています。
地域の方が困った時に身を寄せられる拠り所として存在し、宗派を問わず時代の悩みに寄り添うお手伝いをしていきたいと考えています。
インタビューまとめ
寺院と言えば、お葬式の時にお世話になる所、仏様が眠る所など人それぞれにイメージがあると思いますが、長徳寺様のように独自の試みを多く行われている寺院様は珍しいのではないかと思います。お話をお聞きしたご住職様は、とてもお話が分かりやすく寺院で行われている行事や、ご自身の活動についてご丁寧にお話いただきました。
全ての人類が手を取り合って1つになることはとても難しいことです。実現できないことかもしれません。ですが、だからと言って何もしない、諦めるのではなく自分にできることを考え行動する、これが大切なのではないでしょうか。一人ひとりがその思いで行動できれば、きっと昨日よりも少しでも良いと思える世界に出会えるのではないか、そんなふうに思います。
時宗 不退山 長徳寺 アクセス情報
住所:〒029-3521 岩手県一関市藤沢町保呂羽字宇和田18
TEL:0191-63-3988
URL:https://chotokuji.org/








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