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三坂神社 “アフリ神主”を宮司に迎え、弾除けの神として知られる神社。

三坂神社

日本全国に神社は約8万社。それらの神社には、神主が常駐していない”無人神社”も多く、全ての神社が活き活きと躍動しているというわけではありません。しかし、多くの神社では、神社とそこに伝わる信仰を、未来に向けてどう存続させていくかを考えています。古来からの伝統を未来へと繋いでいくために、各々で特色を出し、これまでやってこなかった試みを実施する神社も数多くあります。

中でも、この三坂神社ほど特色に優れた神社は全国でも数少ないかもしれません。歴史文書で確認できる限りでも、1300年という長い歴史、「弾除け神社」という名で全国に知れ渡った過去、そして現在の宮司様ご自身のレアケースなご経歴など、この神社にまつわる全てが人々の興味を惹きつけるものです。

その特色の全てについて、現在も京大の特任助教として活躍する“アフリ神主”(神主のアフリカ研究者)でもある宮司様(江端希之さん)にお話を伺いました。

目次

三坂神社とは

社殿外観

奈良県の東大寺に現存する国宝・正倉院。その正倉院に残る古文書に登場するのが、三坂神社です。かつては「御坂宮(みさかぐう)」という名称でした。この「坂」とは、日本神話に登場するこの世とあの世の境界線「黄泉比良坂(よもつひらさか)」のことで、三坂神社には生と死の境界線を守る神様がお祀りされています。それはつまり、「命を守る神社」ということです。その所以から、中世・戦国時代に入ると、足利尊氏(室町幕府・初代将軍)、豊臣秀吉(戦国時代の天下人)、藩主・毛利家といった歴代の有名武将が厚く崇敬するようになり、「武運神」として有名になります。そして、日清・日露戦争の際、三坂神社で祈願して出征した兵士全員が生還したことが新聞で報道されると、「弾除け神社」として日本全国に知られることとなりました。

特に第二次世界大戦中には、多くの出征軍人とその家族が「弾除け祈願」を受けに訪れ、「大切な人に生きて帰ってほしい」との願いが込められた写真を神社に奉納していかれました。全国、そして海外からも納められた写真は約2万9千枚に及び、うち約1万6千枚がご本人様やご家族様の元に返還されましたが、残り1万3千枚が現在も神社に残されています。写真の持ち主への返還活動は、多くのボランティアの方々に支えられて、戦後80年を経た現在も続いており、山口県内の多くのメディアで取り上げられています。

現在の宮司様は山口県で生まれ育ったわけではなく、神社の生まれという訳でもなく、一般家庭のご出身ですが、宮司として就任したこの地をとても愛されています。地元の特産品を神社で生かそうと考え、オリジナルの御守りや御朱印など、他の神社にはない授与品を多く考案されています。「弾除け神社」という名前を聞いたことがあっても、それが三坂神社の事だと知らない方が増えた昨今。様々な取り組みをとおして、再び三坂神社を世の中に周知する試みを行っています。

【三坂神社 特別インタビュー】

社殿外観

かつて、現在の山口県を中心とする中国地方を支配していた守護大名・戦国大名の大内氏によって、小京都が作られた山口市。その面影は現在でも所々に垣間見ることができ、豊かな自然と歴史情緒を感じられる土地です。湯田温泉や、国宝の瑠璃光寺・五重塔などは観光スポットとして有名で、訪れて一見すればきっとその魅力に惹かれる街です。

そんな山口市の北部に位置する「徳地(とくじ)」地域。伝統産業に徳地和紙という特別な和紙があり、三坂神社ではほとんどの御朱印に使用されています。地元のものを地元で使う。当たり前のようで、実施が難しい地域も多い中、宮司様の多彩なアイデアによりこの神社では実現されています。

そんな神社にまつわる、さまざまな“特別”の詳細をお届けします。

生と死の境界線の守護神。弾除け神社としての特殊な御利益。

鳥居の写真
編集部

山口県山口市徳地岸見にご鎮座されている三坂神社様へのインタビューです。こちらの地名ですが、「とくじきしみ」とお読みして間違いないでしょうか。

宮司様

はい。そのように読みます。私の妻は山口市生まれ山口市育ちですが、実は私は山口県出身ではなく静岡県の生まれで、親が転勤族だったものですから日本各地を転々としてきました。アフリカの島国マダガスカルで開催された日本兵の戦没者慰霊祭をきっかけに不思議なご縁をいただき、令和6年4月にこちらの神社の宮司を拝命しました。そういった事情ですのでこの地域に関してはまだまだ勉強中なのですが、山口市は室町時代~戦国時代に大内氏という守護大名・戦国大名が主都を置いていた土地です。その大内氏が京都からさまざまな文化人を呼び寄せ、山口を小京都として創り上げました。このような経緯で山口市は、京都に似た文化や街並みが特徴で、現在も当時の古い街並みが少し残っている所もあります。長閑な場所ですが、とても暮らしやすく穏やかな地域です。

編集部

詳しくありがとうございます。では、まずこちらの神社の創建の歴史などからお聞きしていきます。ホームページでは、創建時期について詳細な年月日は分からないものの、おおよそ1300年の歴史があると拝見しました。

宮司様

そうですね。少なくとも約1300年の歴史があると考えられます。この三坂神社は山口県内では通称「弾除け神社」として知られています。テレビなどの各メディアで報道される際には「弾除け神社」の通称で取り上げられることが多いです。その歴史はとても古く、奈良県の東大寺に国宝の正倉院がありますよね。その正倉院に古文書が残されており、その古文書が書かれたのが約1300年前で、そこに登場するのがこの三坂神社です。つまり、文献で確認できるだけでも1300年の歴史があります。その頃にはすでに社殿があったということですね。

編集部

とても長い歴史のある神社なんですね。

宮司様

社名についても、現在は三坂と書いて「みさか」と読みますが、江戸時代より昔は「御坂宮」と書いて「みさかぐう」と呼んでいたそうです。「御坂」の「坂」は「黄泉比良坂(よもつひらさか)」の「坂」です。黄泉比良坂とは日本神話に出てくる、この世とあの世の境界線。古代、生きている人間は地上世界に住み、人は亡くなると地下の黄泉の国に行くと考えられていました。その地上と地下を結んでいる坂道があり、その坂を黄泉比良坂と呼び、生と死の境界線とされていました。つまり、この三坂神社は生死の境界線を守る神様だということです。当社では六柱の神々をお祀りしておりますが、そのうちのお一柱は道反大神(ちがえしのおおかみ)という神様です。この神様は、黄泉比良坂を塞いでいる巨大な岩のことで、その岩が塞いでいるおかげで地下から地上に死者の魂が溢れかえるのを防いでいると言われています。

編集部

そんなお話があるんですね!とても興味深いです。

宮司様

そのような訳で、この神社は元々、我々生き物の命を「死」から守ってくれる「命の守り神」という位置づけでした。そういった神社だったため、中世や戦国時代になると著名な武将が参拝に来るようになり、「武運神」として知られるようになります。三坂神社を崇敬した武将としては、有名なところでは室町幕府を開いた足利尊氏公がいます。尊氏公は将軍になる前、建武の乱(けんむのらん)の頃、京都での戦に負け、一時九州に逃げ延びました。九州に落ち延びる途中、三坂神社へ立ち寄って、祈願のために何泊も宿泊されました。その際、神社の北方で、尊氏公自ら能楽を舞い神様に奉納されたそうです。当社の長い参道も尊氏公が寄付をしてくれたものであると古文書には記載されています。その後、時代が下り戦国時代になると、豊臣秀吉公が天下統一を果たします。秀吉公は拠点を大坂城に置き、朝鮮出兵を行います。その際、秀吉公自ら九州まで出向いています。九州に向かう途中、やはり三坂神社に立ち寄って戦勝祈願を行いました。当時は神仏習合の時代で、お寺と神社が共にあった時代ですので、三坂神社にもお寺にあるような大きな梵鐘がありました。秀吉公はその鐘を九州まで持って行き、遠征軍がそれを持って朝鮮半島に攻めて行きました。戦の際に打ち鳴らしたようです。引き上げの際に鐘も持って帰ってきましたが、この神社には返却しなかったんです。

編集部

そうなんですか!?それはまたどうしてでしょう…。

宮司様

遠征軍の帰りのルートは行きのルートとは違っていたようで、その鐘は、徳地の北方に位置する津和野(島根県)に置いて帰ってしまったんです。鐘が今も神社に残っていれば文化財になっていたと思いますが、それは叶いませんでした。

編集部

それは残念ですね…。戦地から引き揚げてきた鐘であればご利益もあったように思いますが、歴史とはそういうものかもしれませんね。

宮司様

江戸時代にこの辺りを治めていた大名は毛利家で、当社の二の鳥居は毛利のお殿様が寄進くださいました。

宮司様

その後、近代に入ると、出征される軍人さんが「命を守るご神徳」を授かろうと、当社へ参拝されるようになりました。日清・日露戦争の際には、当社で祈願して海外へ出征した兵士が全員生きて帰ってきたことが新聞報道されると、「弾除け神社」として有名になり、全国各地から「弾除け祈願(武運長久祈願)」の参拝者が殺到しました。ただ、出征する兵士本人は軍隊で忙しいため、大抵ご家族の方が代理でお参りに来られて、祈願を受けて「弾除け御守り」を持ち帰り、それを出征する人に渡すということが盛んに行われました。参拝時には、出征する人の顔写真を持ってきて、それを神社に預けていきました。写真を預けた理由として、昔は写真に魂がこもると言われていたこともあり、出征される方の写真を神社に預けることで、その方ご自身も無事に生還すると考えたようです。全国から納められた写真は計2万9千枚にも及び、当時日本の海外領土だった朝鮮半島や満州、台湾からも続々と納められました。

編集部

2万9千枚ですか!それはとてつもない数字ですね。本当に出征される方とそのご家族にとっては心の拠り所になっていたんですね。

宮司様

第二次世界大戦の開戦当時、日本が優勢だった頃には、8~9割の確率で生還されていたとの記録もあります。生還されたご本人やご家族がお礼参りに来られ、預けていた写真を持ち帰る人も多かったのです。3300枚ほどがそうして持ち主の元へ戻りました。しかし、戦争後期になり、徐々に日本の敗戦が濃厚になってくると、戦死者も増加してきます。そして終戦後、進駐軍(米軍を中心とする連合国軍)がやってきます。進駐軍は日本人の精神的支柱となっていた神社を調査するために、靖国神社など一部の神社に調査員を派遣します。実は三坂神社にも二回、進駐軍の調査員がやってきました。その理由は、三坂神社が「武運長久を祈願する弾除け神社」として有名だったからです。当時、三坂神社にはまだ2万5000枚ほど出征軍人の写真が残っていました。その写真の裏にはそれぞれの名前や住所が記載されています。それが進駐軍調査員の目に留まると、もしかすると写真の方やご家族に迷惑がかかるかもしれない。そこで、当時、写真を燃やすことも考えたそうです。ですが、写真は単なる物ではなく、ご家族の想いがこもった大切な物ですので、何とか守り抜こうということで、神社隣の民家の納屋に写真を全て隠し、日本が進駐軍の占領から解放された後、本人やご家族の元へ写真を返還する活動が始まりました。

編集部

壮絶な時代を切り抜けて現在に残っている神社なんですね。

宮司様

写真はこれまでに約1万6000枚ほどを返還してきました。この活動は、終戦記念日など折に触れて「弾除け神社の出征軍人の写真返還活動」として県内のメディアで取り上げていただいています。このために、県内では通称の「弾除け神社」の名前が有名で、三坂神社という正式名称を知らない方もいるほどです。

「神様へのお手紙」も投函可能!何よりも“写真”を大切に。

雪の境内の写真
編集部

先ほどのお話でも特徴的な部分は多く語っていただきましたが、他にこの神社の魅力や見どころはありますか。

宮司様

三坂神社の特徴の1つは、ご由緒に基づく、神社としての特殊な位置づけです。非常に長い歴史を持ち、この世とあの世の境界線を守る特別な神社であるということです。神社の裏山もご神域となっており、そこにはフクロウが住んでいます。境内は、昼間は明るく朗らかな雰囲気ですが、夕方以降になると神秘的で幽玄な雰囲気になるのが特徴的です。

編集部

幽玄な雰囲気、ぜひ私も現地で感じてみたいです。

宮司様

また、令和6年にご社殿裏に設置された「神様ポスト」が好評です。これは神様へのお手紙を投函できるポストで、江戸時代の目安箱のような見た目の木造の古いポストです。神様へのお手紙を書いたら、ポストに投函していただきます。

神様ポスト
宮司様

お手紙に名前と住所が書かれていた場合には、お返事をお出ししています。投函されたお手紙はまず御神前にお供えして祝詞を上げ、お祓いとお焚き上げをしてお手紙の内容を神様にお届けしています。お賽銭が一緒に入っていた場合は、御守りを同封してお返事を出す場合もあります。多くの方が直接投函されていますが、鹿児島や関東など遠隔地から郵送で届くこともあります。

編集部

神様へのお手紙ですか!それは出してみたいものですね。

宮司様

三坂神社の特徴のもう一つの側面は、先ほどお話した弾除け神社としての側面です。令和7年4月には境内に歴史館がオープンしました。歴史館では神社の歴史資料に加えて、弾除け神社として知られた時代の白黒写真や出征軍人の奉納写真などを展示しています。想いや物語を後世へとつなぐ「記憶の継承の場」として、歴史館を活用していきたいものです。

宮司様

また、毎月1日には「おついたち(朔日)参り」を開催しています。1日は毎月恒例の祭典「月並祭」を行っておりますが、その月並祭にはどなたでもご自由に参列していただけます。月並祭の後には社務所で茶話会(おみやde茶話会)を開き、様々なテーマに沿ってお話をしています。茶話会では地元の手作りスイーツなども振舞っており、県内の方を中心に集まっていただいています。

編集部

ただお祭りをするだけでなく地域の方が集まれる場として機能しているんですね。

宮司様

はい。神主さんとお話してみたいという方や、神社や神道のことを知りたいという方、はたまた宮司の研究の専門分野であるアフリカの話を聞いてみたいという方まで(笑)、色々な方にお集まりいただいています。また、当神社独自のお祭りですと、「写真(みをがた)まつり」というものがあります。三坂神社では軍人さんの奉納写真のことを「みをがた」と呼んでいます。「み」というのは敬意を表す接頭辞で、「をがた」というのはお姿のことです。写真祭りは出征軍人さんの写真にこもるさまざまな思いをお慰めする、写真の慰霊祭のようなものです。毎年終戦記念日の8月15日に行っています。どなたでもご自由にご参列いただけます。また令和7年からは神事のみならずイベントも同時に開催しています。三坂神社が鎮座する「徳地」地域には「徳地和紙」という伝統工芸があり、その和紙を使って風鈴を作るワークショップを、写真まつりの日に開催しました。

宮司様

作った風鈴は神社に奉納いただき、境内に飾り付けて頂きました。今後、写真まつりに参加される方がもっと増えれば、キッチンカーなど飲食の屋台にも出て頂きたいと思っています。

編集部

今後の発展もとても楽しみですね!

宮司様

また、山口市には、「山口情報芸術センター(YCAM:ワイカム)」という、県内最大の芸術センターがあり、映像系アートの拠点になっています。「写真」をキーワードにした三坂神社とYCAMの「終戦80年コラボ企画」として、YCAMの映画館フロアを会場に、出征軍人の写真をデジタル化して展示する「デジタル写真展」を開催しました。

編集部

本当に写真を大切にされている神社なんですね。

宮司様

当社は山の中にあり周辺も静かな環境ですが、昔はとても栄えていました。当時は神社の正面を流れる佐波川の向こう岸に、鉄道の駅がありました。今はなき防石鉄道です。弾除け祈願のために全国から訪れる参拝者は、この鉄道で防府市内からやってきて、駅から神社まで歩いてきました。その参拝者の行列が一日中、途切れることなく延々と続いていたそうです。参道には旅館や、うどん屋、遊技場が立ち並んでいました。そして現在、駐車場になっている辺りの場所には神社が経営する競馬場もあり、農耕馬を走らせていました。そして参道では流鏑馬も行っていたのです。

編集部

神社だけでなく周辺環境も魅力的な場所なんですね。

地元の特産品を活かして。珍しい“うんちの女神様”も祀る。

社殿と紅葉の写真
編集部

ホームページやインスタグラムで御守りの写真を多く拝見しました。どれも他の神社ではあまり見かけないものですね。

宮司様

御守りはこの神社独自のものがたくさんあります。御守りは、御守りを作ってくれる業者さんに発注すると、御守り袋の裏に神社名を入れて、納品してくれます。そういった御守りが一般的ですので、御守り袋の見た目は多くの神社で似通っている場合があります。ですが当社では、三坂神社の完全オリジナルの御守りを色々と奉製しています。たとえば、私自身が全て手作りしている御守り(みたま守り)や、地元の桜の環境保全団体とコラボして、地元の桜の枝を使った手作りの「桜の枝御守り」もあります。

宮司様

昔から出している「弾除け御守り」は、財布やスマホケースに入れて頂ける「弾除け身代わり木札」として、今も出しています。木札には地元の檜を使用して、地元の木工職人の方に1体ずつ手作りしていただいています。これは災難除けの身代わり木札で、もしこれが割れたら身代わりになってくれたということで、新しいものと交換していただきます。この「弾除け身代わり木札」と「桜の枝御守り」は、とても人気で、多くの方におわかちしております。「弾除け」とは災難除け、厄除け、危機回避・危険回避という意味ですので、災難除けを望む方や、危険を回避したいご職業の方などは今でも当社に「弾除け祈願」を受けに来られます。例えば、自衛隊の方ですとか。弾除け祈願の際には、祈願を受けるご本人様の顔写真を納めて頂きます。

編集部

なるほど。危険な現場に赴く可能性がある方にとっては大切な場所ですね。

宮司様

御朱印もさまざまな種類を出しており、書置きの御朱印は現在8種類ほどがあります。全て徳地和紙を使用しており、金箔や銀箔をまぶした風の和紙や、写真まつり限定のカラフルな御朱印もあります。他に、黄金の切り絵の御朱印など、さまざまな種類をご用意しております。

宮司様

お祀りしている神様にも珍しい神様がいらっしゃいます。埴山姫命(はにやまひめのみこと)という女神様なのですが、この女神様は日本神話によると“うんち”から生まれた女神様なんです。大地や農業を司る女神様です。同時にトイレの神様でもあり、今風に言えば「美腸」「腸活」の神様でもあります。埴山姫様のご神徳をいただき、便所の邪気を祓うためにトイレに置いていただく不浄除けの護符も出しています。

不浄除けの写真
宮司様

埴山姫様をお祀りしている神社は比較的少ないですが、個性的でユニークなご神徳の女神様ですので、もっと皆さんに知っていただけたら幸いです。

編集部

ホームページではフクロウの御守りも拝見しましたが、これはどういったご縁からでしょうか。

フクロウの御守りの写真
宮司様

フクロウの親鳥が、数年おきに、赤ちゃんを神社の社殿の中に置いていくのです。赤ちゃんは、社殿の屋根裏の梁に住み着きます。そこに赤ちゃんを置いていく理由は、恐らく外敵が来ないからだと思いますが、夜は社殿を閉めているにも関わらず、朝社殿を開けると赤ちゃんがいるので、どこから入っているのかとても不思議ではあります。

編集部

本当にさまざまな種類を出されているんですね。どれもオリジナルで特別感があり素敵です。

宮司様

実は、今これだけの種類を出していますが、私が宮司を承継した令和6年4月時点では御守りがほとんど何もなかったんです。

編集部

そうなんですか!そこからこれだけの数を増やされるなんてすごいですね。

宮司様

先代宮司は御年95歳ですが、もちろん、先代がお元気な頃は御守りを出されていましたが、私が宮司を受け継いだ時点では御守りの在庫はほとんど無くなっていました。そこで、1から御守りを揃えました。そして、せっかくの機会ですので、地元の良いものを使い、地元とコラボしたオリジナルの御守りを出したいと考えたのです。

編集部

徳地和紙は御朱印帳にも使われていると拝見しました。とてもかっこいい御朱印帳ですね!シンプルですが、とても迫力があり魅力的です。

御朱印帳の写真
宮司様

御朱印帳は2種類出しています。1つは表紙に「弾除け御守り」の木札が付いた「御守りと一体型の徳地和紙の御朱印帳」です。ただ、木札も徳地和紙も地元の手作りなので、少しお値段は高くなりますが、手作りならではの温かみのあるものです。表紙の真ん中で白色と黒色に分かれるデザインは、三坂神社が守護する生と死の境界線を表現しています。

編集部

御守りも御朱印も、聞けば聞くほど欲しくなるものばかりで、とても行きたくなる神社ですね。

最大の特色は宮司様。日本でただ一人の“アフリ神主”。

編集部

三坂神社の特色をご説明頂いていますが、他にも何か特色はありますか。

宮司様

そうですね、これは私自身のお話です。神主さんの多くは、家が代々神主をしていてそれを継いでいるという人が多いのですが、私は一般家庭の生まれです。実家が神社というわけではないのですが、若い頃にご縁があり神主資格を取る機会がありました。長らく“ペーパー神主”として、神主資格を持ちながらも別の仕事をしていました。新聞記者や大学研究員として勤務してきました。前職は京都大学アフリカ地域研究資料センターの研究員でした。その研究内容は、アフリカの島国マダガスカルの在来宗教の聖地に関する研究です。マダガスカルに長期滞在して、現地の文化を調査研究するというのが主な仕事でした。この研究成果は、『躍動する聖地―マダガスカル・イメリナ地方におけるドゥアニ信仰の生成と発展』(春風社、2023年)という書籍として出版しています。現在は神主が本業ですが、副業としてまだ大学にも籍があり、京都大学アフリカ地域研究資料センターの特任助教を務めています。

編集部

すごいご経歴ですね…!他の神社ではお聞きしたことがないお話で驚きです。

宮司様

神主でありながらアフリカの研究者として活動しているのは、どうやら私くらいしかいないようで、県内のメディアで取り上げていただく際には「アフリカ」と「神主」を掛け合わせた「アフリ神主」というあだ名で呼ばれています(笑)。

編集部

アフリ神主!確かにそうですね!これはこちらの神社最大の特徴ではないでしょうか。

宮司様

みなさん、物珍しさからか、マスコミで取り上げて頂いたり、執筆の依頼を受けて新聞にコラムを書かせて頂いたりしています。毎月1日に開催している神社の茶話会(おみやde茶話会)では、選択できる話題のテーマのひとつに「アフリカ」を設けています。アフリカの話を聞きたいからとわざわざ茶話会に来ていただく方もいます。

編集部

注目されているんですね!私もどんなお話なのか聞いてみたいです!

宮司様

私が宮司を継ぐことになったのも、アフリカのご縁があってこそなんです。

編集部

詳しくお聞きできますか。

宮司様

ざっくりとしたお話になりますが、第二次世界大戦の際に日本軍が海外に進軍しましたよね。有名なのは太平洋や東南アジア、インドなどですが、実は日本軍はアフリカへも渡っていたことはあまり知られていません。

編集部

確かに聞いたことがありませんね。

宮司様

第二次世界大戦中、マダガスカル島で日本とイギリスが交戦する「マダガスカルの戦い」が繰り広げられ、そこで4名の日本兵が戦没しています。その中心人物は秋枝三郎という山口県出身の海軍中佐でした。そういったご縁から、終戦70年を迎えた年に山口県の神社の神主さんたちが慰霊団を立ち上げてマダガスカルへ赴き、現地で神式の慰霊祭を行うことになりました。ですが、みなさんマダガスカルがどんな場所なのかご存じありませんし、現地の言葉(マダガスカル語)も分かりません。その当時、私は神主資格を持ちながら、京都大学の研究員としてマダガスカル研究に従事していました。その頃は1年の3分の1はマダガスカルに滞在して調査をしていたので、現地の事情もよく分かりますし、マダガスカル語も話せた訳です。そこで、「神道(神社)への理解があり、かつマダガスカルのガイドができる人材」として、私が神主さんたちの慰霊団に同行する現地ガイド役を務めることになったのです。山口県の神主さんたちと共にマダガスカルを旅して、慰霊祭はぶじ執り行われました。

編集部

マダガスカルと日本…まるで結び付きがないと思っていたところにも繋がりがあったんですね。

宮司様

こうして、マダガスカルでの慰霊祭のご縁で、山口県の神社の神主さん方から知っていただくようになりました。これ以降、時々講演会の講師として呼ばれたり、大きな神社でお話させて頂く機会もありました。さらに、慰霊祭をご縁に、マダガスカルで戦没した秋枝中佐の遺族の女性と知り合い、結婚することになりました。私自身は山口と地縁が無いというようなお話をしましたが、正確に言えば、私の母方の祖先は秋枝三郎中佐と同郷の地(豊北町阿川村)なんです。秋枝中佐とも不思議な繋がりを感じます。その後、三坂神社の先代宮司が高齢のために引退を希望され、宮司の後継者を探す際、山口県の神社をまとめる組織である山口県神社庁の方が、私のことを思い出したそうです。実はその方は10年前に私と共にマダガスカルへ渡った方でした。「三坂神社は出征軍人の奉納写真を通じて海外とも縁の深い神社なので、海外の研究に従事し、かつ神主資格を持っていて、慰霊のことにも関心の深い彼が、三坂神社の後継者にちょうど良いのでは」と考えられたそうです。それで、山口県神社庁経由で宮司承継の打診をいただき、お引き受けしたという経緯です。

編集部

本当に巡り巡って回ってきたご縁ですね。ご縁はどこで繋がっているか分からないものですね。

宮司様

地縁も血縁もなく、神社の生まれでもない私が、アフリカの島国マダガスカルのご縁で、神社の宮司を拝命したわけです。人生、本当に不思議なものです。こんな風変わりな「よそ者」を宮司として迎え入れてくれた三坂神社の氏子の皆さん、そして山口県の神主の皆さんには、感謝しかありません。

編集部

とても稀有な神社ですね。こんなに大きな魅力が色々とある神社はそうあるものではありません。現在も京都大学で研究を続けられているとのこと、お忙しいかと存じますが、ぜひこれからも二足の草鞋を履く宮司様として頑張っていただきたいです!

人口減少の中でも人力のお神輿を実現。地域へ愛を、地域からの愛を。

神輿渡御
編集部

では、地域の方と共に実施されている行事などはありますか。

宮司様

秋祭りの例大祭ではお神輿が出て、そのお神輿は地域の皆さんに担いでいただいています。ただ、この徳地地域も少子高齢化、過疎化が進んでおり、重たいお神輿を担げる人は年々減っているのが現状です。

宮司様

当社はまだ人力で担いでいるのですが、この地域で人力で担いでいる神社は当社を含めて数社しかありません。他の神社ではトラックにお神輿を乗せて回ったりしています。人手不足の中、皆さんに担いでもらっていることが本当にありがたいです。他に、節分祭や盆踊り大会も地域の皆さんと共に執り行なっています。

宮司様

また、境内の一斉清掃も氏子の方々、地域の方々が行ってくれています。

編集部

一斉清掃もされているんですね!ホームページで土持(どもち)というものを拝見しましたが、これはどういったものでしょうか。

宮司様

神社には参道の石畳があり、大雨が降ると参道の土が流されたり、逆に土が流されてきて参道が埋まってしまうことがあります。この時に、土や石を持ち寄って参道を整備したり、余分な土を取り除いたりする作業を行なうことがあります。これが本来の意味での「土持」です。ただ、普段は、「境内一斉清掃」と同じような意味で「土持」という言葉を使っています。

編集部

そういったことでしたか。地域の方にも支えられているんですね。

今後の展望

山口県内では弾除け神社という通称で知っていただいていますが、三坂神社という正式名称を知らない方もいます。弾除け神社の話は聞いたことがあるけれど、それが三坂神社と結びついていない方や、三坂神社を訪れたことがない方も多いかと思います。ですが、かつては足利尊氏、豊臣秀吉をはじめ有名な武将が多く訪れ、戦前・戦中は日本全国から参拝者が殺到した歴史があります。まだ未返還の約1万3千枚の出征軍人の奉納写真のこともそうですが、そういった歴史が少しずつ忘れ去られつつあるように感じます。令和12年に三坂神社は、ご社殿創建より1300年を迎え、式年大祭を執り行います。式年大祭に併せて、社殿や境内を修理・修復・整備する「式年1300年記念事業」を実施します。そこで、1300年という節目の年を迎えるに当たり、再び全国の皆様に、この三坂神社のことを知っていただけたら幸いです。

境内には、令和7年4月に新しく歴史館もオープンしましたので、参拝と合わせて神社の歴史なども知っていただければ嬉しいです。

特徴ある御守りや御朱印もあり、「写真まつり」や毎月の茶話会など、自由にご参加いただける行事も数多くあります。山口観光に訪れた際には、有名な観光地を訪れるのはもちろんですが、少しだけ足を伸ばして、三坂神社にもご来社いただけたら嬉しく存じます。

インタビューまとめ

約1時間インタビューを敢行しましたが、こんなにも特徴に溢れた神社は初めてだったのではないかと思うほど、多くの特徴をお聞きしました。1300年の長い歴史を持つ神社であり、弾除け神社として多くの武将や軍人に愛された神社であり、さらに宮司様ご自身のご経歴にも注目すべき点が多くありました。いずれのお話も興味を持たざるを得ないような素敵なお話で、ぜひ全国的にもっともっと知られてほしいと思える神社でした。

地域とコラボした神社独自の御守りなど、来ていただいた方にこの地域の神社であることを感じてほしい、神社をとおして地元の伝統産業を守っていく、そういった姿勢もとても素敵だと感じました。

山口とは「地縁も血縁もなかった」という宮司様ですが、地元の産業を活かしているのは、地域への愛からではないでしょうか。そういった地域を愛する方が宮司を務められる神社は、きっとこの先も人々に愛され再び全国的に名を馳せることでしょう。

三坂神社 アクセス情報

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この記事を書いた人

ラボ編集部のアバター ラボ編集部 編集者・取材ライター

歴史と文化遺産に情熱を注ぐ29歳の編集者、山本さくらです。子どもが1人いる母として、家族との時間を大切にしながらも、文化遺産ラボの立ち上げメンバーとして、編集やインタビューを担当しています。旅行が大好きで、訪れる先では必ずその地域の文化遺産を訪問し、歴史の奥深さを体感しています。
文化遺産ラボを通じて、歴史や文化遺産の魅力をもっと多くの方に届けたいと日々奮闘中。歴史好きの方も、まだ触れていない方も、ぜひ一緒にこの旅を楽しみましょう!

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